産褥熱と手洗い


 「昔、医師が手を消毒するようにしたら産褥熱が劇的に減ったということから、消毒は大変大切だという話は小学校あたりでも教えられ、大変ポピュラーですが、この出産を扱う場合の消毒は必要なのでしょうか?」という質問を受けました。これも面白い話題なのでちょっと一言。

これは消毒法の歴史を紐解くと必ず言及されている有名な話で,「ゼンメルワイスの悲劇」として知られていますが,時々間違って理解されている方がいらっしゃいます。 上記の質問で言うと「手を消毒するようにしたら産褥熱が・・・」という部分。これは今日で言う「消毒」ではなく「塩素水による手洗い」です。これは似ているようで大きく違います。


 話の主人公,ゼンメルワイスは1818年生まれの産婦人科医です。当時,お産をするのは大仕事で,出産後に高い確率で「産褥熱」を併発する妊婦が多く,ある大学病院では出産した女性の半分がこの産褥熱で死亡していました(数字はうろ覚え)。実に恐るべき数字です。もちろんこの「産褥熱」,今日的に言えば「出産後の創感染→敗血症」です。要するに傷が化膿して皆死んでいったわけです。

 多くの医者はこの産褥熱について,避けられないもの,お産と産褥熱は切っても切れないもの,しょうがないもの,起きても仕方がないもの,と考えていました。

 しかし,そういう現状を何とか打破しようと考えていたゼンメルワイスは,一つの数字に目を留めます。病院で医者がお産させると産褥熱は高率に起こるが,産婆さんが自宅で分娩させると産褥熱はそんなに多くない,と言う明白な事実です。
 そこで彼は,医者の手が何か目に見えないものを運んでいるのではないかと推論し,産婆さんと医者の手でどこが違っているのかを徹底的に追求します。

 そしてついに彼は,「医者は病理解剖をしているが,産婆さんは病理解剖をしていない」のが原因だと結論付けます。


 当時,病理解剖の対象には「膿瘍から敗血症を起こした」症例がかなり多かったようです。抗生物質が開発される100年近く前ですから,当然のことです。しかも当時は,「傷から膿が出るのは自然の経過。膿が出て初めて傷は治る」というのが医学の常識(何しろ,当時最も有名な病理学者ウィルヒョーがそう唱えていた)でしたし,手術も素手で行うのが常識でしたから,病理解剖も当然,素手で行っていました。
 また,「病理解剖の後に手を洗う」「手術をする前には手を洗う」という概念すらない時代です。膿だらけの臓器を触った手で医者は赤ん坊を取り上げ,子宮の処置をしていました。

 「細菌」という概念すらない時代に,天才ゼンメルワイスは「病理解剖をした際,医者の手に何かがくっつき,医者の手を介して妊婦の子宮に移動し,産褥熱を起こしている」ことを見抜いたのです。実に,ロベルト・コッホが病原菌の存在を証明する30年ほど前です。

 そこで彼は,「産科病棟に入る前に,医者と医学生は必ず手を洗うこと」と張り紙し,それを実行させます。そして彼は,医者に手を洗わせることで産褥熱を劇的に減少させることに成功しました。


 産褥熱と言う不治の病を克服したゼンメルワイスを,医学界はどう扱ったか? 非難と嘲笑と嘲りの声で迎えたのです。誰一人として彼の偉業に気付かず,変なことを主張するキチガイ医者とみなしたのです。


 当時,医学界に渦巻いた声は

「手を洗う医者なんて,見たことも聞いた事もない」,「過去2000年のヨーロッパ医学で,手を洗うなんて誰もしていない」,「産婆じゃあるまいし,手なんか洗っていられるか」,「手を洗うなんて,面倒くさい」
などでした。手を洗わないと言う習慣を大事にして,産褥熱の予防効果に目を瞑ったのです。

 産褥熱撲滅のために「処置の前の手洗い」をゼンメルワイスが主張すればするほど,周囲の嘲りの声は高くなり,ついに彼は「非科学的な治療を主張した」という理由で大学を追放されます。

(2002/09/21)

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