誤診に基づく論文を排除できない理由


 そしてその後,別の先天異常症候群にぶつかった。正中唇裂,小指多指症(より正確に言うと軸後性多指症),短指症などを合併する症候群で,これまた日本で30例くらいのまれな症候群であり,またもや私が発表することになった。


 当然,文献を集める作業から始まるが,前回の経験から,過去の文献の記述をそのまま鵜呑みにできないことを学んでしまったため,集められる限りの症例報告の論文を集め,論文中の写真などをもとに,報告例の診断をやり直すという試み(暴挙ともいう)に出たわけである。多分,暇だったんだろう。
 この症候群はT型とU型に分けられていて(現在では4つくらいに分類されているようだが),自験例はT型だったが,論文はT型,U型を問わず国内の報告例全てを集めた。

 そこで明らかになったのは,T型として報告されている20数例(だったかな?)の中で明らかにT型なのは6割ほどで,残りはU型だったり別の疾患だったのである。要するに4割の診断が間違っていたのだ。


 まず,本症候群の特徴とされる正中唇裂すらない報告が数例あった。もちろん論文中には「唇裂の合併あり」と書かれているのだが,症例の写真で見ると明らかに片側唇裂なのだ。片側唇裂と正中唇裂は発生的に全く異なっている別個の疾患である。
 その論文の著者は整形外科医だったと記憶しているが,恐らく唇裂に片側と正中の区別があることすら知らなかったのだろう。彼の関心の的は手指の先天異常であり,唇裂に関しては「口唇の変形だから唇裂」程度の認識で論文を書いたのだろうし,投稿した雑誌(整形外科の専門誌)の編集者も気がつかなかったのだろう。

 また,多指症にしても小指多指症でない多指症だったり,指の短縮が骨形成不全でなく絞扼輪症候群による先天性切断だったりと,これまたかなりいい加減なのである。


 もちろん,このようないい加減な診断のもとに症例報告した医者はインチキをしようとしたわけでもないだろうし,ニセ医者だったわけでもない。誠実で勤勉な医者だったはずだ。

 では何故,このような間違った診断のもとに症例報告したのだろうか。理由は簡単で,自分の専門分野以外の症状の診断ができないからだ。口腔外科の医者にとっては口唇裂については詳しく診察しているが,指の異常については「見たところ指が短いから短指症」と診断し,そのまま誰のチェックも経ないまま論文になり,それが専門雑誌に掲載されたのだろう。同様に,整形外科の医者は指の異常については専門家なので正しく診断できるが,口唇の異常については専門外なのである。

 私がたまたま顔面と指の先天異常両方の専門家(?)だったから,どちらの症状も正確に(・・・多分・・・)診断できただけのことである。要するに偶然の産物である。


 そういう場合は,専門家の診断を仰げばいい,と考えるかもしれないが,何しろ体表先天異常を伴う症候群は数が多く,しかも症例数がかなり少ないものが多い。先天異常を専門にしていても生涯に1例しかお目にかからない,あるいは全く見たことがないという症候群の方がむしろ多い。つまり,正確な診断をつけられる医者は実際にはそんなにいないのだ(・・・多分)
 そのため,「これは○○症候群だろう」という診断を誰かにつけてもらえば安心してしまい,「これは○○症候群の症例」と思い込み,教科書に書かれている症状に目の前の患者さんの症状を当てはめようとするのが人の常である。つまり,「足の靴を合わせる」のでなく,「靴に足を合わせ」ようとするわけだ。この時点で,その診断が間違っているかもしれないなんて発想は消えてしまう。かくして,「指が短いから短指症」というような診断が生まれることになる。

 したがって,このような「誤診に基づく症例報告論文」は先天異常症候群の世界では避けられないし,探せば結構見つかるはずだ(・・・山勘だけど)。


 ここである専門家が,体表先天異常症候群について教科書に執筆を依頼されたとする。彼はどうするだろうか。
 彼は,過去の教科書を参考にしながら,過去の症例報告をしている論文を集め,それから各症状の出現頻度(合併頻度)をまとめ,そこから疾患像を作り上げるはずだ。
 問題は,この時点で「誤診に基づく症例報告」も「正しい診断に基づく症例報告」も一緒くたになってしまう点にある。その結果,私が指摘したような「その症候群でない」症例込みで「唇裂の発症頻度は80%」という数字がはじき出され,教科書に記載されることになる。もちろん,この数字はインチキである。誤診症例が4割も含まれているからだ。

 この症候群に関する限り,私のようにしつこく過去の文献例を一例一例疑ってかかる医者はあまりいないと思う。そんなことをするのはよほどの暇人である(オイオイ)。だから,今でもあの間違った数字が次々と引用されているはずだ。過去の文献例をまとめる,という方法論をとっている限り,間違いは継代培養され,数字は一人歩きする。

 症例数が多くて誰でも知っている症候群(例:Treacher-Collins症候群など)なら間違い診断が入り込むことはないだろうし,間違い診断による論文が書かれることもないだろうが,発生数が少ない症候群ほど「間違い診断」が入り込む余地があり,患者数という母数が小さいが故に,発現頻度という疾患の基本データが大きく左右されるのだ。

(2006/01/06)

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