《マルコヴィッチの穴》 (1999年,アメリカ)


 なんとも不思議な雰囲気を持つ不条理コメディー映画。就職したての会社の隠し扉を開けたらそこに穴があって,入り込んでみたら俳優のジョン・マルコヴィッチの頭(というか脳味噌だな)に通じていた,というちょっとぶっ飛んだ内容だ。前半の展開は全然予測が付かなくて,どっちの方向に進むんだろうという感じがナイスだが,後半になるにしたがって何とか論理的な説明(といってもかなり無理やりだけどね)をつけようという方向に変化してしまったため,前半ほどのムチャクチャさがなくなってしまうのが少し物足りなかった。

 あと,マルコヴィッチ(ちょっと地味目の俳優さんですが,存在感のある役者です)以外にはキャメロン・ディアスとかチャーリー・シーンとかが出ているんだけど,この二人が普段と全然違う役作りに徹しているところは見事です。シーンの禿ズラ姿はそれだけで衝撃的だったけれど,ディアスがほとんどジャージ姿で化粧っ気もなくて,特に前半では彼女が演じていることに誰も気がつかないんじゃないだろうか。それほど目立たないのである。ディアス,よくこんな役を引き受けたなぁ,という感じがする。


 で,主人公は人形師(自作の操り人形で人形劇をする)のシュワルツ。人形師って職業があるの,と誰しも疑問に思いますが,自分で人形師と名乗っているだけのようで,当然,稼ぎはほとんどない模様。彼の妻のロッテ(キャメロン・ディアス)はペットショップで働いていて,病気の動物たちを自宅に連れてきて看病したり,一緒に暮らしている。

 で,シュワルツはある会社の求人広告を見てそこに行くんだけど,なんとそのオフィスはビルの「7と1/2階」にあって,エレベーターが7階と8階の真ん中で止まるとそこに入り口があり,やけに低い天井(多分150センチ)しかなくて(7階と8階の間だから当たり前だけど),その階にはいくつかオフィスがあって,皆,腰をかがめて歩いているんだ。何でも,「天井が低い分,家賃が安く給料が高い」んだそうだ。そこで書類整理係として就職するんだけど,秘書みたいな女性とは全く会話が成立しないし,社長は真昼間からエロ話ばかりしている。そこで,一見まともなんだけど,変なところで話がうまく通じない美女のマキシンに惹かれたりと,全然まともでない方向にストーリーが一方的に進んでいく。

 そこで書類のキャビネットを動かしていたらそこに隠し扉があることを発見。入ってみたらなんと,著明な俳優であるジョン・マルコヴィッチの脳味噌に通じていて,彼が今見ているものがそのまま見えてしまうのだ。それは15分間続き,気がつくと近くのハイウェイの土手に落下していた。その経験をロッテに話すと,ロッテもその穴に入りたがり,やはり彼女もマルコヴィッチの脳味噌に入り込んでしまった。15分だけマルコヴィッチになりきることができることにロッテは興奮する。一方,マキシンにもそのことを話し,彼女は「15分だけ他人になれる」ことをうたう新会社を作り,その商売は大繁盛する・・・というのが前半までの展開。

 そして後半,マルコヴィッチをマキシンが誘惑してベッドに誘い,その同時刻にロッテがマルコヴィッチの脳味噌に入り込んでロッテとマキシンが擬似的にエッチする,というかなり異常な展開になり,それにシュワルツが嫉妬したりして,次第に穴の謎が明かされていく。


 まず何がすばらしいかというと,シュワルツが操る人形の動きが半端でなく見事なのだ。これには驚嘆・感嘆するしかない。冒頭,バルトークの「弦,打楽器,チェレスタのための音楽」の第2楽章(だったと思うけど)に合わせて人形が踊る場面は,まさに鳥肌もの。どう見ても人形に見えない顔や手指の繊細な表情,そして爆発するようなダイナミックな動き。それはある意味,生身の人間を凌駕している。あるいは,引き裂かれた二人が壁を隔てて相手を思慕する2体の人形劇なんて,人形が生きているとしか見えないのだ。また,シュワルツが作りかけの人形の足にペディキュアを塗るシーンもすごくエロティック。
 とにかく,この人形の動きだけでも一見の価値があると思う。それと,その超絶的人形操作をするシュワルツと,普段の彼の情けなさの落差がこれまたいい。

 さらに,他人がマルコヴィッチの頭に入り込むのはいいとしても,マルコヴィッチ自身がその穴に入ったらどうなるんだ,というパラドックスはこの映画を見ている人なら誰でも気がつくはずだが,それもきっちりと描かれている。このシーンは笑った。


 もちろん,こういう不条理劇に突っ込みを入れるのは野暮というものだろう。映画前半のような理解されることを最初から前提にしていないような調子が貫かれていたら私も突っ込みは入れなかったと思うが,後半になると「何とかして整合性を持たせよう」という方向に方針転換してしまうため,ツッコミを入れざるを得ないのである。

 最大の問題は,「穴の先はなぜマルコヴィッチなのか」である。ほかの誰でもない,マルコヴィッチが選ばれた理由はほとんどないのである。もちろん,映画の後半に,「これはと思った子供を幼い頃から成長を追い続け,成人したときにその脳味噌に入り込む」というシステムは説明されるが,途中でその子供が死んだらどうするんだろうとか,なぜその子供に目をつけたのかとか,そういう説明は一切ない。しかも,その人間を乗っ取ったジジババ達はそれでもいいかもしれないが,乗っ取られたほうはまるっきりの乗っ取られ損である。

 ジジババたちは長年,こいつを乗っ取ろうと目をつけていたというが,それは乗っ取る側の論理であって,乗っ取られる側(=犠牲者といってもいいはずだ)への謝罪の気持ちというか,済まないなぁ,という気持ちが微塵もないのもすごく後味が悪い。マルコヴィッチに乗り移ったシュワルツはいいとして,乗り移られたマルコヴィッチの意識はどうなっているのだろうか。というよりも,彼の人生って他人にのっとられるためのものだったの,という不条理感がなんだか不愉快なのだ。


 それと,シュワルツの妻のロッテが一番最初にマルコヴィッチの脳味噌に入り込み,その後大興奮して「また,あの穴に入り込んでみたい」というシーンがあるが,あそこでの彼女の興奮の理由がよくわからないのである。他人の生活を盗み見てみたい,という気持ちはわからないでもないし,他人に成りすましてみたい,というきもちもまあ,ありだろう。自分以外のものになりたいという欲望なら,恐らく誰でも一度は思ったはずだ。

 だが,ロッテが入り込めるのは中年男性俳優のマルコヴィッチだけである。それも1回に15分だけである。いくら有名俳優マルコヴィッチといっても,四六時中,俳優をしているわけではないのである。トイレで10分くらいウンウン唸っているかもしれないし,飲みすぎてゲロを吐いている最中かもしれないし,健康診断で胃カメラを飲んでいるときもあるだろう。要するに,マルコヴィッチに入り込んでも楽しいシーンばかりではないのである。いくら他人の生活を垣間見られる機会だといっても,それを何度もしていたら飽きてこないだろうか。多分私なら2回くらいで飽きてくる。他人の生活を覗き見ても詰まらないからだ。

 そう考えてみると,シュワルツとマキシンが始めた「他人の生活を覗ける15分間ツアー」に応募者殺到で商売繁盛,というのもおかしい。「あなたが見たい世界の有名人の私生活を15分見せます」というのでなく,たかが,中年俳優の15分間だ。「アイドル・セレブ女優の私生活15分」なら金を払う奴は殺到するだろうが,有名とはいってもおっさん俳優一人である。そんな奴の私生活,金を出してまで見たいか? もちろん,脳味噌に入り込んだマルコヴィッチを完全に操れるなら,それはそれで面白いと思うが,それができるようになるのはこの映画ではシュワルツだけなのである。要するに,200ドル払った客たちは,中年おっさんの私生活を15分だけ覗き見ることが許されるだけなのである。「こんなものに200ドルも!」と憤慨するのが普通の感覚だろう。


 もちろん,この映画に哲学的な深さを求めたり,実存とは何か,存在とは何か,という議論を持ち込むことは可能だと思う。だが残念ながら,この映画はそれほどの深さはない。ちょっとした思い付きだけで作り始め,哲学的議論は後から付け足したものだと思う。

 それと,マルコヴィッチに入り込んだロッテと,マルコヴィッチを誘惑したマキシンが(遠隔的)セックスし,二人の女性の間に恋愛感情が生まれ(・・・レズとは違っていて同性愛としか言いようがないけれど・・・),それにシュワルツが嫉妬する,というのは余計だったと思う。この部分で映画全体が一挙に生臭くなっちゃった。


 というわけで,不合理で不条理な世界を描いた映画なのに,後半に論理的世界観を持ち込んだため,全体が矮小化してしまった映画だと思う。

 論理に逃げるのは簡単だが,不合理を貫くのはとても大変なのである。

(2007/08/08)

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