新しい創傷治療:宮廷画家ゴヤは見た

《宮廷画家ゴヤは見た "Goya's Ghost"》 (2006年,アメリカ/スペイン)★★★★★


 私はゴヤ・フリークである。絵画の素養はほとんどなく,絵画の知識についてもお寒い限りなのだが,なぜかゴヤの絵は昔から好きだった。そして,堀田善衛の『ゴヤ』4部作(朝日文芸文庫)は何度繰り返して読んだかわからない(今でも時々引っ張り出しては読んでいる)。ゴヤの画集も何冊か持っていた。それくらい,ゴヤが好きだった。

 そんな私にとって,この映画は夢のような作品である。映画の中のあらゆるシーンがゴヤの絵画や銅版画に重なるように撮影されていて,『1808年5月2日』『1808年5月3日』,『気まぐれ』のあの一枚,『戦争の惨禍』のあの一枚大聖堂の天井画の一部分という具合に,元となったゴヤの作品と完全に重ねあわされていたからだ。この監督,なんてゴヤのことを知り尽くしているんだろうと感動してしまった。

 原題は《ゴヤの亡霊 "Goya's Ghost"》であり,邦題の《宮廷画家ゴヤは見た》を問題視する評論も多いが,私はこの邦題はすばらしいと思う。ゴヤの銅版画集《戦争の惨禍》には「私はそれを見た」というタイトルの作品があり,それを明らかに意識したタイトルになっているからだ(私の考え過ぎでなければ)

 ゴヤは徹頭徹尾,観察者であり記録者だった。王侯貴族を,庶民を,物乞いを,闘牛士を,兵士を,ゲリラを,聖職者を,異端者を,死刑囚を,死刑執行人を,老人を,赤ん坊を,英明な友人を,愚鈍な王を,迷信に操られる人々を,皆が信じる魔女を,若くて恐れを知らない頃の自分を,突然聴覚を失ってしまった自分を,そして,歩くことすらおぼつかなくない老人になってしまった自分を・・・見て,描いた。それどころか,病気で瀕死の状態にある自分の姿まで病室に鏡を持ち込ませて必死に自分の姿を眼に焼き付け,病から回復した後にその姿をキャンバスに描いた。
 つまり,ゴヤにとって「見ること,そして描くこと」は生きることと同義だった。それがこの邦題の意味なのである。むしろ,原題より優れていると思えるくらいだ。

 なお,この論評を書く上で無為庵乃書窓というサイトに掲載されているゴヤの作品を参考にさせていただいた。非常に素晴らしいサイトである。


 舞台は18世紀末から19世紀初頭のスペインはマドリード。40台半ばのゴヤはようやく宮廷画家の地位を得,王のカルロス4世,王妃マリア・ルイーサの寵愛を受け,飛ぶ鳥を落とす勢いだった。そして1792年,異端審問官の修道士ロレンゾに依頼され,彼の肖像画を描いている最中だった。
 当時,ヨーロッパの先進地フランスではボルテール(1694年生まれ)やルソー(1712年生まれ)の啓蒙思想が次第に社会に広まっていて,それを受けてスペインでも次第に自由な思想が広まり,逆に教会の権威は下降線をたどっていた。そういう風潮に対しロレンゾは,異端審問を強化して教会の権威を取り戻すべきだと進言する。

 そして,裕福な商人ビルバトゥアの美しい娘イネスが異端審問にかけられる。食堂で豚肉を食べなかったのは異端のユダヤ教の信者のだからだろうと疑いがかけられたのだ。もちろんそれは言いがかり,冤罪だが,激しい拷問を受けたイネスは自分がユダヤ教徒だと自白してしまう。「キリストを信じるものはどんなに苦痛を与えられても,それを乗り越える力をキリストが与えてくれるはずだ。苦痛を与えられて自白するのはキリストを信じていないからだ」と異端審問官は言う。

 ビルバトゥアは友人であるゴヤを訪ねる。彼がかつてイネスをモデルにした絵を描き,現在ロレンゾの肖像画を書いているからだ。そしてロレンゾを自宅の晩餐に招待し,無実の娘を返して欲しいと訴えるが,ロレンゾはそれはできないと言う。それに対し,ビルバトゥアはロレンゾを監禁して捏造文書に強引にサインさせる。ビルバトゥアはその文書を国王に見せ,娘を釈放して欲しいと迫るが,しかしその時,国王カルロス4世に「フランスで暴動が起こり,ルイ16世がギロチンで首を落とされた」という知らせが入る。そしてスペインは混乱し,ロレンゾは混乱に乗じてスペインを脱出する。

 15年後,ナポレオン軍がマドリードを制圧する。スペインを逃れたロレンゾはナポレオン軍に入って出世し,ナポレオンの兄ジョセフがスペイン王となったことから,ロレンゾはマドリードの支配者として舞い戻る。そして,ゴヤとロレンゾは旧交を温めるが,既にその時,ゴヤは聴覚を失っていた。異端審問官たちは捕らえられて監獄送りとなる。

 異端審問所の獄中に15年間つながれていたイネスは釈放されるが,既に両親兄弟は死んでいて天涯孤独の身となっていた。そんなイネスの唯一の心のよりどころは異端審問所の獄中で出産し,その直後引き離された子供の存在だったが,実はその子はロレンゾとの間にできた子供だった。
 頼る者がないイネスはゴヤを頼り,子供を捜して欲しいと懇願する。マドリードの街を奔走するゴヤはついに若き頃のイネスに酷似した少女を見つけるが,彼女は娼婦だった。

 ゴヤはイネスと娘を引き合わせようとする。だがちょうどその時,ロレンゾの耳に「イギリス軍がポルトガル経由でスペインに侵入した。スペインの民衆はイギリス兵を熱狂的に歓迎している」という知らせが入る。行過ぎた市民革命を是正しようとする保守勢力とイギリスの利害が結びついたのだ。そして今度はフランス軍はスペインから逃げ出す番だ。ロレンゾは家族を伴ってフランスに逃れようとするが,その途中で彼は捕らえられてしまう。

 そしてスペインでは王政が復活しフェルディナンド4世が王位につく。そして反革命の嵐が吹き荒れる。獄中に幽閉されていたかつての異端審問官が歓呼で迎えられ,異端審問所まで復活してしまう。そして,異端審問所はフランス軍将校のロレンゾを「神を冒涜する教えを広めようとした」罪で,裁判にかける。異端審問官はロレンゾに死刑を宣告するが,神への許しを乞えば命は助けてやろうと申し出る。そして処刑当日,ロレンゾは・・・という映画だ。


 恐らくこの映画は予備知識なしに見るより,画家ゴヤについて,そして当時のスペインの特殊な社会情勢について知ってから見た方がはるかに面白いと思う。その意味では,堀田善衛の『ゴヤ』4部作を読破してから見ることをお薦めする。ゴヤが肖像画を描いたカルロス4世がどういう人物だったのか,その妻のマリア・ルイーサがどういう人物だったのかがわかると,映画の中のゴヤと王夫妻の何気ないやり取りが実にスリリングで面白くなるからだ。

 例えば,カルロス4世がどういう人間だったか,マリア・ルイーサがどんな人物だったかは,ゴヤの肖像画を見れば判る。王は性格はいいが頭が空っぽで中身がなく,一方の王妃は強欲で邪まな人間に描かれている(ちなみにこの王妃マリア・ルイーサの衣装はベラスケスが幼い王女マリガリータを描いた名画と同じ構図であり,若作りする年増女の救いようのない下品さより強調されている)


 実際,この王は父親のカルロス3世から「どうしてお前はこんなに馬鹿なんだ」と匙を投げられていたほど愚公だったらしい。何しろ,政治や国の運営には全く興味がなく,朝から晩まで狩をするのが王様の仕事と思っていたのだ(この様子は映画の中でも見事に描かれている・・・というか,こういう背景がわかっていないとあのシーンの意味がわからない)

 このカルロス4世は「夜のおつとめ」にはまるで関心がなく,頭の中は狩猟だけだった。暇をもてあましている女盛りのマリア・ルイーサは若い強壮な男を必要とする。それが一回り若いハンサムな近衛兵,マヌエル・ゴドイだった。ゴドイに夢中になったマリア・ルイーサは彼を側近として抜擢し,ついに彼は総理大臣にまで出世する。しかしその時になっても,カルロス4世は二人の関係には気がつかず,「妻は貞女の鑑」と触れ回っていたというから天然記念物級のおめでたさである。
 ちなみに,このような愚王と馬鹿妻がトップにいたのにスペインの政治・経済が曲がりなりにも運営されていたのは,このマヌエル・ゴドイの辣腕のおかげとされていて,彼は単なる「王女の慰み者」ではなかったようだ。
 ちなみに,カルロス4世とルイーサの間に生まれた子供は,実はゴドイの子供ではないのかと当時から噂されていたそうだ。これもゴヤの有名な王家の肖像画をみると一目瞭然。子供たちは誰一人としてカルロス4世には似ていない。

 そして,ジョゼフ・ナポレオンが撤退したあとにスペインの王座についたフェルディナンド4世だが,陰険で腹黒い男だったらしく,これまたゴヤの描いた肖像画では,猜疑心を煮詰めてニコゴリにしたような男として描かれている。豪華絢爛たる衣服は精緻に描かれ,しかも10本の手指を描いているが(両手の指が書かれる意味は映画を見た人ならわかると思う),これは最高度に不愉快な肖像画である。前述のマリア・ルイーサの肖像画でもいえるが,よくもまぁ,ここまで「見たまま」に描き,それを買い取らせたものだと逆に驚いてしまう。このような背景がわかっていると,最後のロレンゾの処刑のシーンでフェルディナンド4世(ゴヤの絵に酷似しているので,多分そうだと思う)が登場するシーンがさらに意味深くなる。


 そしてこの映画は,そのようなゴヤの製作過程を見事に再現しているようだ。最初「顔なし」として描いていたロレンゾ修道士に顔を描いていく過程も面白いし,馬上のマリア・ルイーサにポーズを取らせる方法も面白い。そして何より,当時の銅版画を作る過程を最初から見られたのも収穫だった。なるほど,こうやって「気まぐれ」「戦争の惨禍」「妄想」「闘牛士」が作られたのか。


 俳優陣では,イネス役のナタリー・ポートマンが凄い。拷問と15年間の獄中生活ですっかり変わり果てているのだが,顔が歪み,肌はぼろぼろで,あごが歪んでいるためうまく言葉でも話せない。まさに正視に耐えない凄惨な姿である。いくら特殊メイクとはいえ,良くぞここまで演じたものだと思う。

 逆に,彼女にイネスと彼女の娘アリシアの一人二役をやらせたのは無理がありすぎだったと思う。もちろん,アリシアがイネスの若い頃に瓜二つだったからゴヤが彼女に気がついたという設定が可能になるわけだが,アリシアはこの時15歳,あるいは14歳であるはずだが,映像で見る限り,どう贔屓目に見ても20歳にしか見えないのだ。ポートマンは1981年生まれだから撮影当時25歳だったが,さすがに15歳を演じるのは無理があったと思う。この傑作映画で唯一の計算違いがこの一人二役だったと思う。


 今回はゴヤの絵画を中心にこの映画を論じてみたが,もちろん,異端審問所を巡るカトリックとプロテスタントの関係という点から見直しても面白いし,18世紀末から19世紀初めの啓蒙思想と狂的宗教思想のせめぎ合いという点からヨーロッパの政治情勢,歴史の変転を見ても非常に興味深いと思う。その意味でも非常に懐が深い映画である。

 なお,ゴヤはベートーヴェンとほぼ同時代人であり,二人とも偶然,病気で聴力を失っている(ゴヤは1892年に耳が聞こえなくなった)。この時,ゴヤは自画像を残しているが,なんとベートーヴェンとそっくりであることは堀田善衛の本でも指摘されていた。偶然とはいえ,ほとんど同時代を生きた不世出の大天才同士の不思議な因縁を感じる。


 ちなみに,私の好きなゴヤの作品を紹介しておく。と言っても,多すぎて困ってしまうが・・・。


 ちなみに,堀田善衛の『ゴヤ』4部作ではこの映画は第2巻,第3巻が相当する。興味を持った方は是非読んで欲しい。これぞ歴史に残る名著であり名文である。

(2009/08/26)

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