《ファクトリー・ガール》★★★★ (2006年,アメリカ)


 1960年代のアメリカ文化を代表する2大スター,それがボブ・ディランとアンディ・ウォーホルだった。その二人に愛された女性,イーディ・セジウィックの数奇な人生を描いた秀作映画がこれだ。この時代に興味がある人なら,絶対に見た方がいい。

 映画会社による宣伝は次の通り。

ウォーホルのミューズとなり、
ボブ・ディランが曲を捧げ、
偉大な時代そのものを魅了し、全てから愛された女性――
華やかな世界で孤独を抱えながら、愛を探していた女性――
イーディ・セジウィック
その儚くも激しく美しい輝きを描く物語


 舞台となっているのは1960年代のニューヨーク。その芸術シーンの中心にいたのはアンディ・ウォーホル(ガイ・ピアース)だった。彼は「ファクトリー」と呼ばれるスタジオにさまざまな才能を持つ若き芸術家たちを集め,次々と新感覚の作品を世に送り出していて,彼の作品はポップアートと呼ばれ,新しい時代の旗手としてもてはやされていた。
 そのファクトリーに一人の若い女性が加わる。それがイーディ・セジウィック(ジエナ・ミラー)だった。彼女はサンタバーバラの由緒ある名家(何しろ,祖父はエレベーターの発明者である)の令嬢で画家を目指していたが,その美貌に惹きつけられたウォーホル(ちなみに彼自身はゲイである)は彼女を主演とする前衛的映画を作る。彼女の圧倒的な美しさとウォーホルの巧みな映像もあり,彼女は一躍,トップスターに躍り出,一流ファッション雑誌ヴォーグの表紙を飾るようになった。彼女はたちまち,アメリカ中の女性の憧れの的となり,彼女の笑顔に男たちは虜になっていった。

 しかし,そんなウォーホルとイーディの前にビリー(ヘイデン・クリステンセン)という名のフォーク歌手(ボブ・ディランがモデルだが,最後まで彼の名前を使う許可が得られず,ビリーという名になったらしい)が登場する。メッセージ性の強い歌詞を荒々しい声で歌う彼は1960年代を代表する存在であり,時代の精神的中核を形作るものだった。そんなビリーにイーディは惹かれていくが,それはまさに彼女にとって初恋であり本当の恋愛だった。やがて二人が一緒にいる写真が新聞に載ってしまう。

 その頃から移り気なウォーホルは絵画や映画に対する興味を失い,北欧の美人歌手を中心としたバンドを作って総合芸術を目指そうとしていく。一方,ビリーはイーディにファクトリーを出て自分のもとに来て欲しいと告げるが,彼女はその申し出を拒絶してファクトリーに留まる道を選択する。

 だが,ウォーホルが映画を作らなくなったため、イーディにはもう映画出演の仕事はない。以前の仕事で大金を得ていたが,浪費癖もあって手元には金はなく,裕福な親からの仕送りも途絶え,やがて彼女は家賃にも事欠くようになる。ファクトリーの放埒な仲間たちから教えられたドラッグにも溺れていた彼女は,どんどん追い詰められていく・・・という映画である。


 まず褒めるべきは3人の俳優の見事さだ。特に,ウォーホル役のピアースは本人と見紛うばかりだし(映画の最後の方で,ウォーホル本人が登場するのと見比べて欲しい),ビリー役のクリステンセンもいかにもという感じのディランを演じている。特に,イーディをバイクの後ろに乗せてシーンの表情はとても印象的。
 そして,イーディ役のジエナ・ミラーも輝くばかりに魅力的だ。彼女の笑顔を見るだけで,この映画を観る価値があると思う。


 この映画の主題は60年代のポップカルチャーだ。その一方の旗手がウォーホルであり,一方の雄がディランだ。その意味で,イーディがビリーをファクトリーに招待(?)し,ファクトリーの仲間たちとウォーホルに紹介するシーンは火花が散るようなやりとりがあり迫力満点である。この二人は時代の寵児と言ってもその意味合いはまるっきり違っていて,二人の価値観はまるで違っていて共通点がない。1960年代の文化を「ポップカルチャー」とひとまとめにすることはにあまり意味が無いことは,ここからもよくわかる。

 では,ウォーホルとディランの対決はどうだったか。私の目から見れば明らかにディランの貫禄勝ちである。ビリー(=ディラン)は「なぜスープ缶のデザインをしただけの絵が高額で売れているのかわからない」と言うが,その言葉の意味はウォーホルに届いたのだろうか。
 ディランは確かに売れて金と名声を手にしたが,映画の中のビリーは金より大切なものがあると行動で示している。彼にとっては,何より世に訴えたいことがまず最初にあり,そのためには世の中を敵に回しても仕方ないと覚悟を決めている。一方のウォーホルはファクトリー,つまり「工場」で商品を量産するように売れるものを作っているだけでなのである(少なくとも私はそう思っている)

 確かにウォーホルは20世紀で最も有名な芸術家の一人であり,しかも,生きているうちに評価され,名誉も富も手に入れることに成功した稀有の画家である。それはそれですごいことだと思うが,そのことと彼が生み出した作品の価値は別物ではないかと思う。少なくとも私は,ウォーホルの作品とボブ・ディランの音楽を同列に並べて評価しようとは思わない・・・ウォーホルには悪いが・・・。

 この映画の欠点というか計算違いは,ウォーホルがどういう芸術家だったのかが全く描かれていないことだと思う。1960年代で彼がどれほど大きな存在だったのかがこの映像からは伝わってこないのだ。だからせいぜい,いかがわしいしょうもない同人映画を撮影し,スープ缶のデザインをした遊び人程度にしか観客には見えないのだ。そのため,「ファクトリー」の仲間たちにしても,遊び仲間が集まって芸術ごっことしている,程度にしか見えないし,その結果,イーディがどういう存在だったのかも伝わってこないことになる。イーディの女性としての魅力は十分に伝わるのに,なぜ彼女を映画の主役として取り上げるのかがわかりにくいのだ。これは明らかに計算違いだろう。

 同様に,ボブ・ディランがどれほど素晴らしい芸術家だったのか,時代をリードするカリスマだったのかも,この映画からは伝わってこない。だから,イーディがビリーに惹かれていくシーンも,単なる浮気と言うか遊びにしか見えないことになる。

 当時の文化をよく知っている人間にとってはこの映画中の説明で十分と思われるが,あの時代以降に生まれた人間も既に40歳近くなっているのだから,ウォーホルとディランについて,もうちょっと丁寧に説明して欲しかった気がする。


 この映画の最大の欠点は,一人の若い女性の物語として共感しにくい点だろう。要するに,イーディは一体何をしたかったのかが全く伝わってこないのだ。この映画だけを見ると,「美しい若い女性が前衛芸術家の映画に出演して超有名になったが,やがて落ちぶれ,最後はドラッグ中毒で死にました」ということになり、それ以上でもそれ以下でもない。これでは単なるバカ娘の転落物語である。

 彼女は少なくともアングラ的な映画であっても多くの人に知られたスターであったことには間違いないし,何よりヴォーグという一流雑誌の表紙を飾っている。要するに出発点で既に,映画俳優やモデルを夢見る幾多の女性にとっては手の届かない存在であり,スーパースターであり勝ち組である。
 普通ならそこから,一流女優の道や一流モデルの道に邁進しそうなものだが,彼女はそういう努力を一切していないのである。だから,イーディについては哀れだなとは思うがそれは自業自得であり,悪いはお前だろ,と思ってしまうのだ。要するに,原石の才能はあってもその磨き方を知らなかった,もしくは,磨こうとしなかったわけだ。

 おまけに,映画の中の彼女は一切努力していないだけでなく,自分から何かを決断することもほとんどない。唯一の決断は,ビリーからの申し出の拒絶である。後に彼女が「あれは最も愚かな決断だった」と回想するシーンがあるが,映画を見ていてもなぜ彼女がビリーでなくウォーホルを選んだのか,全くわからない。


 イーディはその後,薬物中毒から立ち直りって結婚もしたが,結局は薬物の過剰摂取で28歳の若さでこの世を去っている。それを知らされたウォーホルが教会で懺悔するシーンがあり,彼女の死に責任を感じているというように言っているが,本心では「あれだけ有名にしてやったのに,それでもまだ不足だったのか? もっと私に何かしてくれと求めるつもりか?」と思っていたのではないだろうか。


 というわけで,ちょっと辛口の文章を並べてしまったが,これは単に私個人のウォーホルとディランに対する評価の違い,好みの違いであり,イーディの生き方に対する人生観の相違である。
 それらを抜きにすると,この映画は素晴らしい傑作だと思う。何より,当時の文化に慣れ親しんだ人にとっては宝物のような作品だと思うし,1960年代から現在まで続く「ポップアート」の系譜を知る上でも重要な作品ではないかと思う。

(2010/01/29)

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