《八日目》(1996年,ベルギー/フランス)


 まず最初に,ストーリーを紹介する。

 主人公は大銀行のエリート行員アリー(ダニエル・オートゥイユ)。社員教育を任せられるなど信任も厚い。しかし,妻は子供を連れて実家に戻り,子供たちに会わせてももらえない。せっかく会える機会を作ってもらっても仕事ですっぽかしたりしたため,子供にも愛想を尽かされている。

 そんなある日,障害者施設から脱走したダウン症の青年ジョルジュが連れていた犬をひき殺してしまったことから,ジョルジュの面倒を見る羽目になってしまう。当初,アリーはジョルジュを厄介払いしようとしたが,ジョルジュの純真さ,純粋さに次第に感化されていき,失った何かを取り戻していく・・・という映画である。

 ちなみにこの奇妙な映画のタイトルは旧約聖書に基づいていて,「神は一日目に太陽作り,二日目に大地を作り・・・六日目に全てを作って七日目は休息した。そして八日目にジョルジュを作った」という意味である。


 とにかく評判のいい映画である。仕事一筋の中年男がひょんなことから知的障害者(21-トリソミー,いわゆるダウン症候群)と知り合い,彼の屈託のない笑顔と裏表のない行動をみているうちにいつの間にか癒されていく,という内容だからだ。この映画の感想を述べているサイトをみると,「心が洗われるようだった」,「感動をありがとう」,「見終わって暖かな気分に包まれました」というように絶賛の言葉が並んでいる。

 だが,私はこの映画は嫌いだし,感動もしなかった。一種のファンタジーとして見る分には毒にも薬にもならないし,そのように鑑賞すべき作品なのかもしれないが,少なくとも私はこの映画に感動できなかったし,不愉快になっただけだ。


 私は依然,ピアノサイトを運営していた頃,「大江光のピアノ曲はつまらない。曲として評価するレベルに達していない」とはっきり書いた。ご存じと思うが,大江光はノーベル賞作家大江健三郎氏の長男で知的障害者だが,幼い頃から音楽に興味を持っていて作曲もするようになったという人物である。一時期,彼の作品が活発に演奏され,楽譜も出版されたことがあった。その頃の演奏会評を読むと「瑞々しいピュアな感性が感じ取れる素晴らしい作品」,「私たちが忘れかけていた何かを思い出させてくれる作品」と最大限の評価が並んでいたものだった。

 10代終わりから20代初めの頃の私にとって,大江健三郎は最も尊敬する慣れ親しんだ作家であり,ほぼ全作品を読んでいた。しかも,彼の長男には脳に障害があったことは繰り返し彼の作品で描写されていた。その長男がなんとピアノ曲を作曲したのだ。これは大江ファンとしては絶対に弾かなければいけないと思った。

 だが,そのピアノ曲はつまらなかった。本当につまらなかった。とるに足らない駄曲だった。こんなものなら小学生でも作曲できる。こんな幼稚な曲のどこが「感動的」なんだろうか。なぜこの程度の曲に「感動」できるのだろうかと,そっちの方が不思議だった。

 この程度の曲しか並んでいない楽譜を3000円で買った自分の間抜けさが情けなかった。他人やマスコミの評価を鵜呑みにした自分の愚かさが恥ずかしかった。楽譜を見て曲の評価を見抜けなかった自分の評価眼のなさが許せなかった。

 もちろん,障害を持つ大江光氏が作曲をしたことは素晴らしいと思う。だが,そのこととその作品の価値は別物だ。作品の価値は作曲者の人となりと関係なく評価されるべきだと思うのだ。作曲者が泥棒だろうと詐欺師だろうと殺人犯だろうと,素晴らしい曲を書いたなら作曲者としては一流だが,聖人君子でもクダラナイ曲しか書けなければ作曲家としては三流である。マザー・テレサと二宮尊徳を合わせたような素晴らしい人格者だが料理の腕が悪ければ,料理人としては失格なのだ。


 この映画のジョルジュの役割は何か。それはニコニコ笑うだけの役割だ。この映画は要するに,知的障害者はニコニコ笑っているだけでいいと考えているのだ。この映画の作り手は,ニコニコ笑っていればそれが周囲の健常者の癒しになるからただニコニコ笑っていて欲しいと,考えているのだ。

 これって,すごく馬鹿にした態度ではないだろうか。障害者を一段低く見る「上から目線」が感じられないだろうか。だから私はこの映画が不愉快なのだ。要するに,同じダウン症患者が主役の映画だった《リンガー! 替え玉★選手権》とは天地ほども違うのだ。障害者に関するあらゆるタブーを破壊し,そして見る人を圧倒的に大きな感動で包んだ《リンガー!》と本作品の違いは決定的なのだ。《リンガー!》は障害者を差別もしないければ賞賛もしない。美化もしない。その点が,この《八日目》との違いだ。

 そして何より不愉快だったのが,映画の作り手たちが「ダウン症=蒙古症=モンゴル発祥の病気」と思いこんでいる点だ。なぜ,障害者施設のダウン症患者たちがモンゴルの民族衣装に身を包んでモンゴルの平原を馬で走るシーンがあるのだろうか。もちろん,以前は21-トリソミーは「蒙古症」と呼ばれていたが,これは「目がつり上がってモンゴル人(東洋人の総称だろう)みたい」ということからつけられた病名であり,モンゴルともモンゴル人とも無関係である。それなのに,「ダウン症といえばモンゴルだから,モンゴルの風景を入れよう」というのは余りにひどい無理解と誤解である。私がモンゴル人だったらこの映画の描写に対して抗議すると思うし,このシーンだけでもこの映画をクズ映画と断罪する。


 その他にも,いくつも気になった点がある。

 まず,アリーの妻が家を出た理由が十分に説明されていない。いきなり妻が一方的に出奔したからアリーは妻にその理由を問いただそうと必死に追い回すのだが,これだけを見ていたら単なるストーカーである。妻の気持ちが観客に分かるようにもっと丁寧に説明して欲しかった。

 後半の,施設の障害者たちが展示してあるバスを盗んで海沿いの遊園地(?)に向かうシーンを「痛快!」と感動する人が多いが,私はこれを見て不愉快だった。これは単なる窃盗犯である。障害者だろうが健常者だろうが,犯罪は犯罪である。遊園地で遊ぶシーンも器物損壊,不法侵入だろう。「障害者なんだからこれくらいは大目に見てあげましょうよ」と考える人がいたら,その考えの方がおかしいと思う。


 とにかく,私はこの映画を「感動作」と評価する人間の感性が信じられないし理解もできない。
 これは,見る人を最高に不愉快にさせる「感動作の皮を被ったクズ映画」である。

(2010/05/13)

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