新しい創傷治療:木洩れ日の家で

《木洩れ日の家で "Pora umierac"★★★★★(2007年,ポーランド)


 ここ1年間でジジババが主人公の映画を多く見ている12345・・・)。もちろん、自分が次第に彼らの年齢に近づいていて、老いとか死とかが自分の問題になってきたからだ。特に医者を長年していると、病院で死ぬ人の中に自分と同年齢の人が案外多いのだ。彼らが死んでいるということは、自分もやがて死ぬということだし、それは明日かもしれないし5年後かもしれないし10年後かもしれない。確実に言えるのは、自分もそう遠くない時期に確実に死ぬということだけだ。

 今回紹介するのは91歳の老女優が演じる静かな秀作ポーランド映画、《木洩れ日の家で Pora umierac》だ。原題は《死の時》という意味らしい。これほど美しく静謐で、そして毅然とした映画はない。全てに決着をつけ、子供たちの歓声と走り回る足音に包まれて、お気に入りの部屋の椅子に座りながら眠るように死を迎える主人の姿には、痛ましさはこれぽっちもない。憐憫を受けることもなく、人生への悔悟もなく、卒然と自分に訪れる死を泰然として受け止めている。自分もいつの日にか、こんな死が迎えられたらどんなにいいだろうと思う。

 そして、そんな主人公の死を見つめる愛犬の表情が泣かせる。その目は死を理解し、死を悟った者の目だ。それはまさに賢者の瞳のようだ。

 この映画の良さがわかるのは、50代半ば以降の人だけだろう。自分の親の葬式を出し、そのうち、俺の葬式の時は子供たちが喪主になるんだ、という事実に気がついた人だけだろう。それより若い世代は見てもつまらないと思うし、淡々と老女の日常を描くだけのストーリーに飽きて途中で寝てしまうと思う。だが、そういう人たちもあと数十年すれば、この映画の良さがわかると思う。

 ちなみに、映像は夢のように美しいモノクロ映画だ。そして、白と黒だけの映像なのに、古い家を取り囲む森や庭の木々の緑が鮮やかに浮かび上がってくる。


 ポーランドの首都、ワルシャワ郊外の古い家にアニェラ(ダヌタ・シャフラルスカ)は愛犬のフィルと一緒に暮らしている。街に出ることは滅多になくなり、隣人たちの様子を双眼鏡でちょっと見るのが唯一の楽しみだ。一人息子ヴィトゥシュ(クシシュトフ・グロビシュ)は独立してからは年に1、2回立ち寄る程度だし、息子の嫁とは折り合いが悪いし、息子と一緒に遊びに来る孫娘(パトルィツィヤ・シェフチク)も田舎の屋敷がつまらなくて、「もう帰ろうよ」と駄々をこねる始末。

 この屋敷にはあらゆる思い出が詰まっていた。ここでアニェラは育ち、恋をし、結婚し、ヴィトゥシュを育てたのだ。そして彼女は最後の時をこの家で迎えたいと願っている。そんな彼女の家の両隣に住んでいるのは、一方は傲岸不遜な成金夫婦、そしてもう一方は子供たちのための音楽教室を開いている若いカップルだった。

 成金夫婦はアニェラの家を買い取りたいと考え、親の財産を目当てにしているヴィトゥシュはこの夫婦に取り入って親の家を売ろうと画策しているし、たまに遊びに来る孫娘も、目当てはおばあちゃんの指輪だけだった。息子と孫は「肥満で強欲」だった。屋敷の買収を迫る隣家からの電話に、さすがのアニェラも根負けしそうになる。

 そんなある日、隣の音楽教室に通っている男の子が屋敷に侵入し、アニェラの部屋に入り込んでくる。音楽教室の様子を眺めていたアニェラはついに思い切った決断をし、音楽教室を経営するカップルを呼び寄せて・・・という映画である。


 とにかく、アニェラを演じるダヌタ・シャフラルスカが圧倒的に素晴らしい。2007年の映画公開時で91歳か92歳、現在もまだご存命だったはずだが、矍鑠(かくしゃく)とはこういう人のことをいうのだろう。背筋はピンと伸び、歩行器や杖とも無縁で、屋敷の結構急な階段も危なげなく上り下りできる。もちろん、頭脳は明晰だしボケてもいない。そして何より、時折見せる表情のなんとチャーミングなこと!

 そして、この名老優を支える愛犬のフィルがこれまたうまい。映画の半分くらいはアニェラがフィルを相手に話すシーンだが、フィルは飼い主の一言一句を全て理解しているとしか思えないのだ。目の表情が「賢い」のである。そして何より、アニェラの最後を看取るシーンでの表情は感動的だ。そして、フィルもまた日をおかずしてアニェラの元に旅立つのだろうな、ということさえ想像させる深い表情なのだ。

 そして、このアニェラの「死の時」、屋敷の1階は子供たちの笑い声と走り回る足音と運び入れる楽器で騒々しいばかりだ。これこそが彼女が選んだ「死の時」だったのだ。彼女の魂は子供たちの騒々しい声に包まれて天国への階段を登っていく。

 この前のシーンで、アニェラが喪服を着てベッドに横たわり、「私はこれで死ぬんだ」というシーンがある。自分の生まれ育った思い出深い家で死ぬ、という意地を通そうとするなら息子夫婦や孫が家を売り払う前に死ぬしかないという、悲しい決断である。
 だがそこで彼女は決然と起きあがる。こんなことでは死ねない。こんな惨めな死に方はごめんだ。息子夫婦になんか頼らなければいいのだ。そして彼女は決断するのだ。その結果、彼女は子供たちの笑い声を聞きながら、お気に入りの部屋でお気に入りの椅子に座り、フィルに見守られて一人旅立つ。


 自分の死に方とか,自分の葬式とかを現実の問題として考えるようになった人にだけお薦めする珠玉の名品である。

(2012/09/06)

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