『血みどろの西洋史―狂気の一〇〇〇年』★★★


 いかにもオドロオドロシイ本のタイトルを見るとスプラッターホラー系の映画みたいだし,第1章の「魔女狩り」と「残虐刑罰」,あるいはイスラム側から見た十字軍の無法残虐行為を描いた第2章などは,そこらのゴア系ホラー映画なんて稚戯にしか思えないほどの残酷描写である。さすが肉食人種はやることが派手だなと思ってしまうが,何のことはない,400年前の日本でも似たようなことをしていたわけである『殉教 日本人は何を信仰したか』 (光文社新書)。洋の東西,食べ物の違いを問わず,人間はやる時にはとんでもないことをやってしまう生き物らしい。


 ではこの本はそういう残虐本なのかというとそうではなく,後半2章のキリスト教の成立と古代神話の関係,三大福音書(ルカ,ヨハネ,マタイ伝でしたっけ?)に含まれなかった外典福音書に何が書かれていて,キリスト教の成立の過程で何が切り捨てられたのかというあたりが実は一番面白いのである。

 それにもまして,情報量が半端でないのである。出窓はもともとトイレだったとか,ヨーロッパのドレスは簡単に洗濯できる構造ではなく,おまけに簡単に脱ぎ着できるシロモノではなかったとか,貞操帯と拳銃のベレッタの関係とか,当時のベッドが小さいのは上半身を起こして眠るのが普通だったからとか,薀蓄の山,知識の宝庫なのである。こういう知識をさりげなく文章に入れる著者の博識には脱帽するしかない。

 そして文章がこれまたうまい。例えば,第1章冒頭の「もしあなたが魔女裁判の時代に生きていたとして,最も気をつけなければならないことは何か」という導入は見事だ。これを読んで,続きを読みたくない人はいないと思う。というか,もしもあなたが突然,中世ヨーロッパにタイムスリップしてしまったらこれを知らないと生き残れないのである(・・・タイムスリップすることは滅多にないけどね)。あるいは、魔女狩りマニュアルとして大ベストセラーになった1486年出版の『魔女への鉄槌』の説明の部分で「うんざりするほど,延々と女性への攻撃が綴られている」と説明し,「いったい著者の人生に何があったというのだろう」というツッコミを入れるあたりの呼吸は見事だ。同様に,傭兵の歴史を説明する第2章で「傭兵隊にとっては戦争の終結は失業を意味する。であれば,勝ちすぎず,負けすぎず,延々と戦争を長引かせようと考えても不思議はない」と傭兵たちの心理を分析し,「本気で戦って死んでどうする。どうせ相手も同じ傭兵隊だ」という傭兵たちの本音に迫っていくのだが,文章のリズムがいいため、ストンと理解できるのだ。


 それにしても,魔女狩りの最盛期が盛期ルネサンスからバロックにかけての200年間であり,魔女裁判は18世紀末まで続いていたというあたりにびっくりする。ベートーヴェン(1770〜1827)が一生懸命ピアノの練習をしていた頃になっても,まだ魔女裁判が行われていたのである。しかも,魔女の検挙数と穀物価格のインフレ率が見事に一致していたなんてあたりに,人間の行動を決めるものは「飯と金」であることを見事に証明している。魔女狩りはいかにも暗黒中世を象徴する出来事のように見てしまうが、実はニュートンやライプニッツやヴェサリウスの時代にも行われていたのだ。「飯と金」が絡むと理性が吹っ飛んでしまうのだろう(・・・だから,魔女狩り・魔女裁判は私たちと無関係なものではない・・・「飯と金」が原因だから)

 あるいは,ナポレオンは「祖国フランス・フランス人」という概念を「発明」し(・・・それまでは「国家」「国民」という概念は存在しなかった),徴兵制と国民皆兵制度によりヨーロッパ諸国との戦争を勝ち抜いたことは有名だが,そのナポレオンの栄光の陰に膨大な数の死者がいたことを本書は取り上げる。皇帝就任後の兵士動員数の累計が166万人だったのに対し,戦死者はなんと78万人以上だったのである。つまり,2人に1人が死んだのだ。当然,国内には次第に厭戦気分が広がり,徴兵を逃れるために様々な手段を講じたり逃亡したりする者が増え,徴兵対象年齢を下げざるを得なくなり,最後は徴兵年齢は15歳だったという。これでは,ロシアと冬将軍に負けようと負けまいと,いずれナポレオンが見放されるのは時間の問題だったような気がする。


 そして,私が個人的に一番面白かったのは第5章のキリスト教の成立過程である。例えば,「キリスト教と他の宗教の最大の違いは,教祖様本人が刑死していること」ということから,ローマ時代の大迫害と殉教者たちの行動を見事に浮かび上がらせている。

 同様に,「平凡な母親マリア」が「聖母」とされる過程も面白い。何しろ,古い時代の典外書にマリア本人の聖性を認める傾向があったのに,新約聖書ではイエスがマリアに対する態度はつっけんどんというか,「一応産んでくれてありがとう」程度で何とも冷たいのだ。このあたりの変化を,ローマ多神教徒の関係から説明する手際は実に見事だ。

 あるいは,聖書を読んだだけではよくわからないのが「なぜイエスはユダを弟子にし,裏切ることが分かっていてそのままにしておいたのか。師であるイエスが弟子ユダを教え諭すのが筋ではないか」ということだが,それが1978年に発見されたグノーシス主義的な色彩の強い「ユダの福音書」を読むと,実に明快なのである。なるほど,ユダはあの目的のために最後までイエスに同行し,イエスが処刑される手立てを整えたのか。これならイエスの行動が私にも素直に理解できるし,イエスとユダの行動は首尾一貫したものだと判る。


 魔女裁判や十字軍の様子を見ると,なんて愚かな無知蒙昧な連中なんだろうと思ってしまいがちだ。そして,中世ヨーロッパの人間たちが魔女なんていう迷信を頭から信じ込んでいたのは,彼らが野蛮で無知だったからと考えてしまう。だが,そういう見方は間違っていると思う。彼らは私たちと同じ人間であり,ただ,生きている時代が違っていて,時代の常識が今と異なっていたため,私たちが理解に苦しむ行動をしただけなのである。

 以前『5000年前の男』という本を紹介したが,これを読むと新石器時代の男が私たちと同じように日々の生活を送り,行動していたことがわかる。そして恐らく,「アイスマン」は私たち同様,家族を想い,人間関係に悩みながらもその日その日を生きていたのだろう。同様に,黄金のインカ帝国の最後の王アタワルパが,スペインのならず者ピサロの仕掛けた簡単な罠に落ちて捕らえられたのは,アタワルパが愚かでピサロが頭脳優秀だからではない。両者の運命を分けたものは書き言葉の有無だけだったのだ。

 恐らく,数万年前から人間の本質は変わっていないし,人間の思考様式も論理構築様式も数万年前も今も同じはずだ。ましてや,500年や1000年前の人間が私たちと異なっているわけがない。異なっているのは生きている時代の「社会の常識」であり,その「常識」のわずかな違いが,恐ろしいほどの「行動の違い」を生み出したのだと思う。

(2011/05/16)

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