『ニッポンの書評』(豊崎由美,光文社新書)★★


 「あなたはこの本の書評を書く自信があるの?」と問いかけてくる本だ。いうまでもなく本書は,書評(=新刊書を中心とする本のレビュー)のプロが書いた「書評論」である。要するに,プロのピアニストの演奏に素人がレビューを書くようなもので,二重の意味で自殺行為である(=書評のプロより文章が下手なうえに分析力も大してない)。それなら書かずに済ませるという手もあるが,本書はそうもいかないのだ。内容があまりにも面白くそして興味深いからだ。これで詰まらない内容の本ならスルーできるが,本書はそれを許さないのである。読んだからには何かを書かなければいけない本なのだ。ううむ,困ってしまったぞ。

 問題はどうやって書き出すかだ。何しろ著者の豊崎さんが「一番気を使うのは書き出しの部分」と書いているのである。生半可な書き出しでは失礼に当たるというものだ。さあ,何から書き始めようか・・・。


 あなたは200字で本の紹介文や感想文を書けるだろうか。本の書評を書いてみるとわかるが200字は本当に短いのだ。ちょっと書くとすぐに200字を超えてしまうはずだ。
 私はかつてそれに挑戦したことがある。拙書『さらば消毒とガーゼ 「うるおい治療」が傷を治す』(春秋社)の「私の本棚」というコーナーである。ここでは,私が影響を受けた様々な科学書10冊(・・・だったかな?)を取り上げることになったが,「字数200字以内」というチョー厳しい字数制限だったのだ。人類の歴史を俯瞰する大著も,木星の衛星エウロパに生命が存在する可能性を示唆する生物学の本も,200字で紹介しなければいけないのだ。この「200字レビュー」は今思い起こしても本当に大変だった。本来なら2,000字どころか3,000字でも欲しいくらいなのにその1/10の200字なのだ。しょうがないから,文章を景気よくバッサバッサと削りなんとか200字にできたが,それを編集者に送ると「字数はいいですが,それではこの本の魅力が伝わりません。書き直してください」と鬼のようなダメ出しが返ってくるのだ。200字じゃ無理です,という声が何度も出かかったが,最後は気合いと根性で完成させた。人間,やればできるものである。
 さて,本書でも著者の豊崎さんは「800字の字数制限で(文芸書の)書評を書くのはすごく大変だ。最初,2000字を越える文章を書き,それから削りに削り,粗筋紹介をさらに削り,そして800字にまとめる。それなのに,原稿料は字数単位であり,苦労して書いた800字の方が安い」と書かれている。このあたりはとてもよくわかるし,プロの書評家も同じような苦労をしているんだなと,ちょっと嬉しくなった。
 こんなことから本書のレビューを書き始めようとしたが,なんだかちょっと文章が泥臭い。これでは自分の苦労を書いているだけで,本書について全く紹介していない。第一,私の本を宣伝してどうするんだよ(・・・だから,文章全体が生臭くなっているのだよ)。これでは豊崎さんに「こんなものは書評ではありません」と一刀両断されてしまう。最初から,書き直すとしよう。


 この書評家の書いた書評論の本を一番読んで欲しいのは学会発表が苦手な医者だ。なぜかというと,ここに学会発表の極意が書かれているからだ。学会発表の極意とは何か,それは「知っていること,勉強したことを全て盛り込まない。スライドに全ての経過,全ての検査データを書き込まない」であり,それは本書に書かれている「書評の極意」と一致するからだ。
 学会発表をするためには否応なしに勉強しないといけない。その疾患について教科書を読み,過去の論文を全て読んでいくうちにどんどん知識が付いてくる。そして,知識が深まるにつれてそれを人に披露したくなる。
 しかし,口演時間はせいぜい5分であり原稿用紙にして3枚半だ。だから,自分が勉強したことを全て漏らさず原稿用紙3枚半の中に詰め込もうとする。もちろん,スライドも文字と数字でギチギチ状態となる。全ての情報を入れたからだ。その結果,発表は焦点がぼやけ,なぜその報告をしたのか,何がこの発表のキモなのか,演者は結局何が言いたいのかがまるでわからない要領を得ない発表となる。
 こう言うときは本書を読んでみよう。そこには「そもそも書評は誰のためのものか?」という根元的な問題提起があるはずだ。書評はその本を知らない人に買ってもらうための文章だ。書評家の知識をひけらかすために書いたものでもなく,本の著者におべっかを使うために書いたものでもなく,その本の魅力に気付いてもらって買ってもらうために書くのだ。
 これは学会報告も同じなのである。学会発表とは聴衆に発表内容を理解してもらうために行う。だから,徹頭徹尾,聴衆のことを考え,聴衆にとってのわかりやすさを念頭に置く必要がある。だから,「俺はこんなことまで知っているんだぜ」的な知識の披露もいらないし,「私はこの発表のためにこんなに勉強しました」的な知識の羅列もいらない。そんなことは,聴衆には無関係だからだ。
 学会発表とは誰のためのものか,という原点を思い出させてくれる良書である。
 というような紹介文を書こうと思っていた。これなら書き出しの一文の掴みはバッチリである。問題は,本書の紹介でなく,学会発表のノウハウに終始してしまうことだ。これでは書評の意味がない。もう一度書き直すとしよう。


 皆さんは「4つのユウ」という言葉をご存知だろうか。これは,私がまだクラシック音楽のレコードを盛んに買い集めていた時期に,雑誌「レコード芸術」に載ったエッセイのタイトルである。「4つのユウ」とは「悠然,雄大,雄渾,幽玄」のことで,要するに,この4つの言葉を適当に組み合わせれば演奏の批評なんか簡単に書けるね,という自虐ネタみたいな内容だった。ちなみに私見では,この4つに「悠揚迫らざる」という「5つ目のユウ」を加えれば完璧な演奏のレビューが超簡単に書けるのだ。
 例えば,「指揮者○○が演奏するベートーヴェンの第9の新盤だが,第1楽章の悠然たる足取りに始まる悠揚迫らざる演奏はまさに若くして大家の風格を感じさせるものといえよう。そして幽玄の境地に遊ぶ第3楽章を経て第4楽章に至るが,ここで音楽は一気に白熱し,雄大にして雄渾なクライマックスを創り上げる。恐るべき才能である」・・・なんて感じの文章だ。こんな文章,どっかで読んだことありませんか?
 なぜこんなことを思い出したかというと,本書の著者,豊崎さんはこういう「お手軽にプロっぽい文章に見える文章が書けるフォーマットを使うな」と書いているからだ
 ・・・と,途中まで書いて,本書にはそんな文章がなかったことに気がついてしまったぞ。オイオイ,どうするんだよ。
 書き直し,書き直し。第一,「俺はこんなことまで知ってるんだぜ」的な書評は一番ダメだって,豊崎さんの本に書いてあるではないか。もう一度,豊崎さんの本をよく読んでから,書評を書いてみよう。


 新聞には全国紙と地方紙があり,全国紙といえば読売,朝日,毎日,日経などだ。発行部数でいえば読売がトップで朝日が2番手だ。しかし,朝日新聞がトップの分野がある。それが書評欄の影響力だ。ネットには無量大数的に膨大な数の書評が溢れているが,日曜日(でしたっけ?)の朝日新聞の書評欄の影響力は絶大で,ここで取り上げられた本は,たとえ硬派の学術書でもかなり売れるらしい(おいらの本,取り上げられませんでしたが,恨んでませんよ・・・全然恨んでませんよ・・・ほんとに恨んでませんから・・・)。本を書く仕事をする人間にとって,朝日新聞書評欄で取り上げられるかどうかは大問題なのである(・・・ここは超本音!)。これは朝日以外の新聞でも同様であり,出版業界では新聞の影響力はいまだに絶大なのだ(・・・ここは超リアル!)
 ところが,本書の著者,豊崎さんはこともあろうに,「第12講 新聞書評を採点してみる」でこの「新聞の書評欄の書評」に噛みついているのだ。書評で食っている人間が書評欄に噛みついているのだが,その噛みつき方が半端でないのである。何しろ,署名入りで書かれた書評について5段階評価(特A〜Dまで)しているのだ。しかも,最低ランクのDとなると「取り上げた本の益にならず,むしろ害をもたらす」と一刀両断,ぶった切りであり,こともあろうに朝日新聞の書評2編に「D評価」を下しているのだ。思わず「あちゃー,やっちまったよ。ここまで同業者をぶった切っちゃって,豊崎さん,大丈夫っすか?」と逆に心配になるくらいだ。
 もちろん,それほど切れ味がいい文章であり,分析なのである。
 もちろん,ここまで書いてしまったら,書いた本人も無傷では済まないはずだ。まさに,「第10講 プロの書評と感想文の違い」に書いているように「返り血を浴びる覚悟で批判せよ」で批評していることがわかる。要するに,根性が座っているのである。
 と,ここまで書いたが,やはり書き出しが弱いな。最初の「新聞には全国紙と地方紙があり」なんて,緊張感もなければその次を読ませる力もない文章だよ。全然ダメじゃん。やっぱ,書き直そう。


 というわけで,本書の書評を書こうとして,出だしの一行が書けずにいまだ悩んでおります。いつになったら書けることやら・・・。

(2011/06/08)

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