一週間はなぜ7日になったのか  (柳谷 晃,青春新書インテリジェンス)


 羊頭狗肉という言葉を使うのは酷かもしれないが,それに近い内容の本である。もしもあなたが,「なぜ一週間は7日になったのだろうか?」というのを知りたければ,本書の第4章の最初の数ページを本屋さんで立ち読みするだけでいい。おそらく立ち読みだけで理解できるであろう,単純明快で見事な説明が書かれている。この説明には全く問題はない。

 では,本書の残りのページには何が書かれているかというと,「一週間が7日の理由」とは無関係なことが書かれていて,しかも一貫したテーマがあるようなないような,微妙な感じなのだ。無理に言えば「古代文明と数字と暦のあれこれ」が本書のテーマと言えるかもしれないが,全体に内容が散漫で統一感に欠けている。


 なぜこんな「まとまりのない本」になったかというと,異なる時期にバラバラに書いたエッセイをまとめて一冊の本にしたからだと思う(「本の書き手」として本書を読むと,そのあたりの裏事情は手に取るようにわかる)。要するに,出版社から「こんなテーマで本を書いて下さい」と依頼があって原稿を書き始めたのでなく,バラバラな時期に書いた文章を「同じようなテーマだから」という理由で一つにまとめたのだろう。例えは悪いが,映画配給会社が「飛行機が出てくる映画」という理由で,全く無関係の映画を「エアポートシリーズ」として配給するようなものか。

 そのため,似たような文章が本のあちこちで見つかったり,用語が統一されていなかったりする。これについては,本書の担当編集者の問題も大きいと思う。用語の統一や内容のチェックは編集者の仕事だからだ。要するに,作家側も編集者側も「やっつけ仕事」の感が否めないのである。


 もしも私が「一週間はなぜ7日になったのか」というタイトルの本を書くことに決めたらどうするか。まず最初に全体の章立て,つまり本全体の構成を決める。例えば,最初の章では古代の様々な暦を取り上げ,それぞれの「1週間の日数」の一覧表を作り,「1週間=7日」が普遍的現象であることを立証する。その次の章では「そもそも暦は何のために作ったのか」という理由を説明し,それが実際に古代文明でどのように暦が使われていたのかを説明する。そして次の章では暦を作るために必要な技術とそれを実現するための困難さを説明し,最後の章でそれまでに披露した知識を有機的に統合することで「一週間は7日でなければいけない」ことを論証する。要するに,知的ドラマとして本を組み立てていくわけだ。


 ところが本書はそうでないのだ。第1章で4大文明が大河の川沿いに発生し,川岸で農耕を行うために1年という時間のサイクルを知る必要があった,と説明を畳み掛けていく部分はいいのだが,なぜかそこでピラミッド作りの話に話題が移り,黄金比に話題が飛んでいく。そして次は,ピタゴラス派とエレア派の論争が取り上げられ,離散的数学と連続的数学に話題が移る。そしてそのあとは,数の数え方と位取りの話,その次は60進法と10進法の話という具合だ。そして次は,「記録と計算の両方に使えるアラビア数字」が話題とされ,その次はアラビア数字とバビロニア数字の小数点以下の表現法の違い・・・となる。次から次へと話題がめまぐるしく変わり,次にどこに飛ぶのか全く予測できないし,前の部分との論理的なつながりも弱い。

 要するに,その章は全体としてどの方向に向かっているのか,章全体が目指している着地点がどこなのかがわからないのである。例えて言えば,駅に行こうとしているのに,今歩いている道が駅に向かう大通りなのかそれとも近道の裏通りなのか,駅とは全く無関係な方向に向かっているのかすらも告げられないまま歩かされている,という感じである。実際にこういう場面になったらすごく不安でしょうがないと思うが,これは読書も同じだと思う。せめて,大通りなのか脇道なのか,目的地まであとどれくらいなのかが読者にわかるような文章でないと困るのだ。
 懐石料理だと思って食べていたら,いきなりジャスミンティーが出て次はナンとカレーが出てきた・・・という感じでは困るのだ。


 もちろん,この本は楽しい知識で満載である。「クリスマスでは25日の当日より,前日の24日のイブが大事なのはなぜ?」とか,コペルニクスの地動説に対してのローマカトリックとプロテスタントの態度の違い(地動説をよく研究したのがカトリック,研究しようともしなかったのがプロテスタント)とか,土星の「サターン」は悪魔とは無関係とか,そういう小ネタは面白かった。なるほど,そういうわけでクリスマス・イブを盛大に祝っているのか。これは,次の宴会の席での小ネタとして使うとしよう。


 それと気になったのは,最終章の「賛美歌を聞くと心が休まる秘密」という部分だ。「バッハの平均律の最後の部分の繰り返しに,この12音のすべてを使っている」と書いてあって,これはおそらく「平均律第1巻」の最後を飾る「ロ短調フーガ」を指していると思われるが(主題そのものが半音階進行を多く含み,しかも転調が多い),一体どの部分を指して「繰り返しの部分」と述べたのかは全く不明である。

 同様に同じ段落で,「現在でもこの12音をすべて使うような作曲を行う人たちがいるが,12という数を,聖なる数と考えているかどうかはわからない」という文章は,明らかに12音音楽を知らずに書いているようだ。12音技法は「主音と属音からなる自然な心地よい響き」を否定することから考え出された数学的作曲技法であり,これで作られた音楽は「心休まる音楽」でも「心地よい響き」でもないからだ。

 要するに聖なる数字の「12」に拘るあまり,「1オクターブは12音。だから12音すべてを使った音楽は聖なる音楽なのだろうか」ととんでもない勘違いをしてしまったようだ。
 この部分だけでも重版の際に削除したほうがいいと思う。

(2012/06/12)

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