『エコノミストは信用できるか』(東谷 暁,文春新書)


 「ううむ,ここまで書いちゃっていいの? 同業者から攻撃されてないの?」と,読んでいる方が心配になるほど過激に,経済学者,エコノミストの言動と思想を一刀両断に断じている極めて明晰にして痛快な本。とはいっても,俎上に上げているエコノミストの実際の言動をもとに論じているんだから,「俺はそんな事はいっていない」と反論するのは不可能だろうが・・・。


 何しろ冒頭から「日本経済は繁栄せず,エコノミストだけが繁栄した」って断じちゃう。「市場の声,という言葉があるが,実は声の市場なのがこの業界だ」とも言ってしまう。おまけに,巻末には有名エコノミスト一人一人ごとに,前後の一貫性,議論の整合性,説得力,市場供給力,市場需要力をそれぞれ20点,合計100点満点で採点して評価しちゃうのである。いわばエコノミスト達の通知表だな。

 これによると長谷川慶太郎氏が65点,野口悠紀男氏77点,田中直毅氏56点,植草一秀氏69点,竹中平蔵氏63点だって。ちなみに竹中平蔵大臣の点数が低いのは,前後の一貫性が8点,議論の整合性が9点,説得力10点と極めて低いためである。


 ここで取り上げられているエコノミストはどれも高名な方であり,日曜日の朝などのテレビ各局のニュース番組に常連として登場する人ばかりである。これらの番組では,「いかにしたら不況を脱出できるか」,「構造改革と不況対策は両立するのか」,「デフレスパイラルをどうしたらいいのか」「インフレターゲット論をどう考えるか」なんてテーマで議論を戦わせていて,エコノミスト達はそれぞれの立場から,問題解決の処方箋を提示している。

 これらの番組を見ていると,一人一人の意見を聴いていると「なるほど」と納得するのだけれど,なぜかエコノミスト同士の議論になると,まるで噛み合っていないということに気が付くはずだ。要するに議論のようであって,実は議論ではないのである。つまり,同一の問題を論じているはずなのに,それについての共通の理解の基盤すらないのである。


 同書でも論じられているが,バブル崩壊寸前の時期に,あるエコノミストは「これはバブルではない。日本経済はまだまだ成長する」と論文を書き,別のエコノミストは「これはちょっと異常ではないか」と雑誌のインタビューで答えている。同じ経済現象について,180°見解が異なっていたわけだ。

 今となっては前者が間違っていて後者が正しく事態を判断していたことがわかる。そして1991年のバブル崩壊を迎える事になったわけだが,この時,前者の有名エコノミストはどう言ったか。なんと,「あれは明らかに異常な地価の上昇であり,典型的なバブル経済だった。その異常さに皆,気付くべきだった」と,コロっと寝返っちゃったのである。オイオイ,数ヶ月前にあなたの言っていたこととまるで逆じゃない。見事なまでの忘却能力といっていいだろう。実は,エコノミスト達の言動を論文や著書で追っていくと,このような「手のひら裏返し・コロっと寝返り」現象が珍しくないのである。


 この本を読んでいると,経済学とは数学とか物理学と同じ「学」なのだろうか,と言う気になってくる。

 経済学とは詰まるところ,過去の経済現象について,なぜそうなったのか,なぜこの状態から脱却できたのかを分析しているだけじゃないんだろうか。だから例えば,「アメリカはいかにして大恐慌から脱却できたのか」という問題一つ見ても,幾つもの考え方,見方がでてくるし,解釈はエコノミストの数ほどあって不思議はない。なぜなら,その解釈の基盤になっているデータは極めて多岐に渡るため(何しろ経済というやつは個人の消費から国の経済政策まで,関与するパラメータが雑多で範囲が広い),そのうちのどのデータに着目するかで一つの解釈が生まれ,ひいては一つの論文が書けてしまう。そして,論文になるとそれを孫引きする連中も出てくるし,引用される回数が増えるほど論文としての格付け,引いては学者としての格が上がるシステムになっている。


 例えば財政出動という考えがある。公共事業への政府の支出などがそれにあたるらしいが,財政出動が不況脱出に有効なのか,有効でないのか,という基本中の基本に関しても,論者によってバラバラで定説がないという。

 金融政策(日銀の金利を何%にするかとか)に関しても同じで,0%金利という異常状態を続けていいのか,もう止めるべきなのか,続けているとどうなるのか,止めてみたらどうなるのかという根本問題についても,百家争鳴,百花繚乱である。

 しかも,そもそも財政赤字である状態に問題があるのか,実は問題にならないのかについても定説がないのである。なるほど,これじゃ,皆が勝手な事を論じてもいいわけだ。

 つまり,財政赤字をどうするか,財政出動すべきかどうか,金融政策をどうするかだけでも順列組み合わせで8通りの考えがあり,それぞれの軽重に差をつければさらに多数の理論が生まれる。しかし上記の説明で明らかなように,その全てに根拠がなく,もちろん,根拠もないのだ。ここまで来ると,呆然とするしかない。


 そして,経済学における数学的処理の持つ胡散臭さも気になる。例えば,「貨幣数量説」という考えがあって,これは次の式で表現される。

〔貨幣量〕×〔流通速度〕=〔価格〕×〔生産量〕
 これは,過去の歴史を分析すると成立するとされている権威ある式だ。何となくそうかな,という気がしないでもない数式だが,これはどう見たって,数学の数式(例:eiπ+1=0)と同等の厳密さを持つ数式とは思えないのだ。

 だって,〔価格〕とか〔生産量〕なんて,局所的に単一業種内では算出できると思うが,国レベルとなると簡単に求められる値とは思えないし,一義的に決まる数値とも思えないからだ。多分,自分に都合のいい数値で計算した〔生産量〕が決められるのが,精一杯じゃないだろうか。

 上記の式で〔流通速度〕が一定なら,〔貨幣量〕は〔価格〕×〔生産量〕(これが名目総需要にあたる)に比例する事になり,不況から脱出するためにはドンドンお金を刷っちゃえばいいんだよ,という結論になるが,こういう考えでいいのだろうか。なんだか,胡散臭くないですか?


 経済学の本を読んでいて一番違和感を覚えるのが,そこで使われている数式や理論のほとんどが,「これを○○と仮定すると」とか「この値を△△で表すと」という表現がやたらと多い事だ。理論のもっとも基本の部分が「仮定」あるいは「仮説」で成り立っているような気がする点だ。仮説を元に数式を提唱し,その数式を元に経済政策を提言しているのだが,最初の仮定の部分が間違っていたらどうするんだろうか。砂上の楼閣にならないのだろうか。


 一つの経済現象について,エコノミストの数と同じだけの見方があり,そのうちで政権に近い人物の説が取り上げられ,それが国の経済政策となっているのが現実である。だが今だかつて,自説の通りに経済運営をしたのに失敗し,その責任を取ったエコノミストはただの一人もいないのである。

 少なくとも,「昔はこういうことがあった」という経験則の積み重ねから導き出された理論は,過去の出来事の解析には有効かもしれないが,そこから「今後こうしたらいいだろう」とか「これは昔のこの事例に似ているので,同じ方法を取れば同じように解決するだろう」とはならないと思う。
 これは経済学の取っている方法論の限界ではないだろうか。

 歴史学者は過去の歴史を分析し解析するが,そこから未来は予言できない。できるのは,「以前,このような事件があって,それに対し為政者はこのような政策を取った。その結果,国民にはこのような災厄が振りかかった。今回の事態はこの状態に極めて近い。前回の撤を踏まないようにすべきだ」と警告を発する事だろう。

 エコノミストの役割とは本来,これと同じではないだろうか。

(2004/03/01)

 

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