《プルーフ・オブ・マイ・ライフ》 (2004年,アメリカ)


 数学が好きなんで,数学者が登場する映画は結構よく見ていて,この映画もその一つです。数学の天才である父とその数学的才能を受け継いだ娘の愛情と葛藤を描いた映画,というところでしょうか。

 素材としては面白いし,素数に関する世紀の難問(どうもリーマン予想関連の難問と思われます)も登場するし,数学に関する小ネタも登場するし,その点では結構面白いです。しかし,映画としての基本的な構成が雑というかまとまりが悪いです。おまけに,登場人物同士が常にヒステリックに怒鳴りあってうるさいです。このため,本来なら感動的な映画のはずなのに,全てヒステリー姉ちゃんの妄想だったんじゃないの,という気になってきます。


 父を亡くしたばかりの娘,キャサリンが主人公。彼の父は23歳にして数学上の大発見をした天才です(・・・というか,数学者は20代前半までが勝負ですよね)。しかし,5年前から精神疾患にかかり(どうも統合失調症みたいです),自宅に引きこもっています。その面倒を見て最期を看取ったのが次女のキャサリンです。彼女はどうやら,少しだけ大学で数学を専攻していたようですが,そこらへんは詳しくは語られません。ただ,父の数学的才能だけは受け継いだようです(数学的才能は通常遺伝しないものなんだけど・・・というツッコミはなしね)。ただし父親は5年間ずっとおかしかったわけでなく,時々まともになり研究を続けていて,それをキャサリンが手助けしていたようです。

 そして,葬儀の夜(かつての同僚とかが集まってどんちゃん騒ぎするんだけど,これがうるさい,うるさい),父の教え子のハルが一冊のノートを見つけ,そこに,世紀の難問の証明が書かれているらしいことを発見します。しかしここでキャサリンが「実はその証明,私がしたの」と言い出すのです。


 ここまでは普通の映画の展開ですが,ここからゴチャゴチャした展開となり,何がどうなっているのか,非常にわかりにくくなります。

 まず,父親(アンソニー・ホプキンス)が登場するシーンはすべて「これはキャサリンの回想だな」と判るのですが,それが時間軸がバラバラのため,今はどういう意味のシーンなのかがわかりにくいです。おまけに途中から,キャサリンが被害妄想モードに入ってしまうため,その証明をしたのが父親なのかキャサリンなのかが定かでなく,「世紀の超難問を証明!」という大ネタがかすんでしまいます。

 また,キャサリンに数学的才能があったとしても,相手の難問は,ちょっとした思いつきや閃きで太刀打ちできるものではありません。例えば,「フェルマーの最終定理」のワイルズの証明を見ると,ありとあらゆる多種多様な数学上の技法を駆使してようやく証明しています。これは20世紀後半に残された幾つかの「最後の未証明問題」も同様で,医学で言う「集学的治療」的発想と知識の集約があって初めて立ち向かえるものでしょう。となると,なぜキャサリンがそういう超難問を数ヶ月もかからずに証明できたのか,という疑問が生じます。このあたりは説明不足というより,脚本のミスでしょう。

 あと,ハルとキャサリンがお互いに惹かれあってベッドイン,というシーンも薄っぺらで説明不足です。キャサリンの心情の描き方が不足しています。


 何より悪いのは最後のシーン。結局,ハルたちがその証明に間違いが発見できないことを明らかにします。それからいろいろあって,ハルとキャサリンがベンチに座って「二人で一行一行,確認していきましょう」という風な会話で終わるんですが,これってどうなんだろうか。だって,検証作業は既に終わっているわけだから,次のステップにいかなければいけないわけですよね。つまり,その世紀の大証明を彼女の名前で発表したのか,あるいは父と彼女の連名で発表するのかは非常に重要な問題なわけで,そういうシーンで終わってくれれば「キャサリンも色々苦労したけどよかったね。父親の最後に5年間が無駄でなかったことを世に知らしめることができてよかったね」と,カタルシスが得られたはずです。それがないため,「中途半端なところで終わっちゃったよ,この映画」感が強いのです。


 料理と同じで,いくら素材がよくても調理が下手じゃうまい料理にはならない,ってことだな。

(2007/02/24)

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