《ドッグヴィル》 (2003年,デンマーク)


 正直に個人的感想を書けば,すご〜く後味が悪い映画です。主人公の女性,グレース(ニコール・キッドマン)を集団でこれでもか,これでもかといじめ抜く映画で,おまけにグレースはそれを当然のように受け入れるどころか,「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」的な態度に徹するため,迫害する側(ドッグヴィルの村人)はさらに図に乗っていじめまくる,ってなシーンが2時間ほど連続します。要するに,人間の嫌な面を徹底的に描くことに徹した映画です。

 最後の最後でカタルシスを覚えるシーンがあるんですが,それすら「ほうら,これを見てスッキリしただろう? でも,これでスッキリするということは,お前も醜い人間なんだ。それに気が付かなかったの? 私は判るように映画を作ったつもりなんだけどな」という監督の底意地の悪い仕掛けがしてあるわけで,それがさらに一層,不愉快さと後味の悪さを増強します。

 驚愕の演出といい,情け容赦のない描写といい,デンマーク国内で作られた「アメリカを舞台とした映画」といい,映画ファンなら一度は見るべきかもしれないけれど,私としては二度見たい映画ではありません。


 舞台になっているのは,ロッキー山脈のかつての鉱山町,ドッグヴィル(「犬の町」という意味でいいのかな?)

 道はそこでとぎれ,それより奥に人家もないというどん詰まりの町ですが,非常に貧しいけれど,20人足らずの村人が方を寄せるように仲良く生きている町です。そこに,一人の若い女性が迷い込み,村人たちの生活に変化が生まれる,という映画です。

 最初のうちは村人たちに次第に受け入れられていき,ちょっといい感じになっていきますが,ちょっとしたことをきっかけに村人たちの態度が一変し,彼らはエゴイズムをまる出しにして,グレースに心理的,肉体的な迫害を加えていくんですね。


 まず,映画冒頭のドッグヴィルの町並みにびっくりします。体育館みたい建物の床に白線を引いてあるだけだからです。そこに,登場人物の家の間取りが書いてあり,道路の名前が書かれているだけ。部屋の中に最小限の家具が置かれているだけで,壁もなければ窓もありません。そこで俳優さんたちは,あたかもドアを開けたり窓を開けたり畑を耕したりする仕草をします。犬が一匹登場しますが,床に dog と書かれているだけで,本物の犬は登場しません。あとは,廃坑の入り口を示す木枠,教会の鐘,そして岩山を示すハリボテが置かれているだけです。斬新な試みとも低予算だったからしょうがないとも言えるけど,びっくりすることは間違いないでしょう。

 そして撮影に使われたビデオカメラはハンディタイプのもので,画面は手ぶれしまくりです。おまけに,音声は,物語を解説する声と登場人物たちの会話しかありません。画面もモノトーンな感じで,途中でちょっと雪が降ったり日の光や月明かりが指す程度です。色々な低予算映画を見てきましたが,ここまでケチったのは初めてです。そのくせ,俳優さんはキッドマンをはじめとして結構有名どころを使っていますので,人件費で予算を使い切っちゃったのかな,なんて考えたりして・・・。いずれにしても,観客側の想像力と協力を必要とする映画です。

 このため,最初の30分くらいが非常に辛いです。ここを乗り切ると,次第に面白くなっていきますがそれも30分と続かず,あとは陰湿・陰惨でサディスティックなグレースへのいじめとレイプシーンの連続です。つまり,観客側の忍耐力が試される映画です。

 それにしても,ニコール・キッドマンはこの映画への出演をよく引き受けたもんだな。


 まず,何が嫌かって,この映画監督の「人間とは徹頭徹尾,救いようがないほど醜くて残酷なものだ」という哲学というか人間の見方です。もちろん,それはそれで一面の真理なんだけど,それだけを延々と見せつけられると神経がどんどんささくれ立ってきます。

 ゲロを画面一杯に見せて,「これがおまえの胃袋にも入っているんだ。どうだ,汚いだろう」というのは正しいにしても,「これは善人面している牧師のゲロ,これは清純に見える少女のゲロ,こっちは両親思いの青年のゲロ,これは天使のように可愛い顔をしている男の子のゲロ」と,ゲロばかり撮影して3時間近い映画にして公開するというのは,やはりどこかで狂っているんじゃないでしょうか。もちろん,「そっち系」のマニアは,ゲロ最高じゃん,もっと見せて,というかもしれないけど,そうじゃない大多数の観客にとっては,かなり辛いものがあります。

 途中で,村の子供の一人がグレースに「僕は悪いことをしたんだから罰としてお尻を叩いて」というシーンがあります。彼の母親は体罰絶対反対なんですよ。ここでこのクソガキが「僕のお尻を叩かなければ,お母さんにグレースがお尻を叩いたと言いつける。お尻を叩いてくれれば,お母さんには告げ口しない」と言うんですよ。もちろん,このクソガキは母親に「グレースが罰としてお尻を叩いた」と告げ口するんだけど,どう考えても,グレースには逃げ場はないわけですよ。「右に行っても左に行ってもあんたは死ぬけど,どっちを選ぶ?」と言っているようなものでしょう? このクソガキの言い方の嫌らしさは見ていても最高に不愉快でしたね。このクソガキにこの映画の嫌らしさと卑しさが最もよく表れています。

 グレースが村人との交流の証として買った大事な人形を,村の女性の一人が一つ一つ壊していくシーンもいやだったな。いくら,人間の暗部をえぐり出すのが映画の目的とはいえ,普通はあそこまでやらないんじゃない?


 グレースを最初に発見する青年トムは作家志望で,人はどうあるべきか,社会とはどうあるべきかを常に考えている,という設定なんだけど,観念論でしか人間を見ていないわけで,要するに頭でっかちの馬鹿です。こいつが途中で,グレースを逃がす計画を立てるんだけど,四角四面に間違いのない脱出計画を立てるため,結局どこにも逃げ出せません。しかも,グレースもグレースで,さっさと夜にでも逃げ出せばいいのに,そういうつもりもなさそうで,おとなしくレイプされたりするばかり。

 途中で,脱走計画が実行されるんだけど,「この映画はこのセットの中だけで撮影を終えるつもりなんじゃないの」ということに気が付くと,こりゃまた村に逆戻りだろうなと予想がつき,その通りになります。

 そういえば,トムは父親と一緒に暮らしていて,父はかつて医者だったが現在は引退して年金暮らしという設定です。トムは作家志望だけど仕事はしていません。つまり,親の年金で暮らしているわけで,碌なもんじゃねえな。こいつ,父親が死んだ後はどうやって生活するつもりなんだろうか。こんなパラサイト野郎に,人間とはとか社会とはとか語られたくないぞ。


 さて,訳の分からないアメリカ映画,アメリカを舞台にした映画では天使を探せ,という原則があるんで,この映画をその線で探ってみると,やはりいました。グレースです。彼女が最初に登場するシーンがあるのですが,それまで暗くてモノトーンな画面が連続する中で,彼女のブロンドが輝くんですよ。大体こういうシーンは「天使の光輪」の象徴ですから,ま,そう見てもいいのではないかと思います。

 となると,最初の1時間くらいで,頑なだった村人たちが次第に心を開いて交流が始まるシーンはグレース天使だから当然ということになります。その後の陰湿ないじめが始まっても彼女が無抵抗にそれを受け入れ,素直に従うのも,単にマゾだからでなく天使だから。また,どんなにひどい目にあっても顔も髪もきれいで汚れがなく,衣服もきれいというのも説明が付いちゃう。

 となると,彼女の父親は当然のことながら神様ということになり,最後のシーンは最後の審判・神の怒りなんでしょうね。せっかく天使を送り込んだのに,天使だってことに気がつかず逆にレイプしたりするもんだから,天の業火で焼き尽くしちゃった。


 でも,そんなのはどうでもいいや。もう二度と見ない映画でしょうから。そして,この監督の他の映画も見なくていいな。

(2007/02/20)

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