『なぜ宗教は平和を妨げるのか −「正義」「大義」の名の下で−』 (町田宗鳳,講談社+α新書)


 平和と平等と愛を唱えない宗教はない。そのような宗教の教えや教義を文字通り解釈すれば,宗教は平和を望み,戦争や殺し合いを憎んでいるように見える。だが,現実の世界では,神の名のもとに戦争が起こり,神の許しを得て大量虐殺が正当化されてきた。

 宗教は平和を望んでいるのだろうか,それとも平和を妨げているのだろうか。そんな重い問題を真摯に問い詰めているのが本書である。

 ちなみに作者は臨済宗の僧侶であり,その後,ハーバード大学神学部で修士号を取得している比較宗教学の専門家だ。


 まず作者は,戦争状態というのものがどんなものなのかを想像せよ,と説く。

 たとえば,太平洋戦争は70歳以上の人たちにとってはまだ強烈な記憶だ。最後の1年は日本本土各地が爆撃され,沖縄では地獄のような地上戦で多くの人が犠牲になり,広島と長崎では人類未曾有の地獄絵だった。

 だがそれも考えてみたら,わずか4年間の出来事である。

 しかしアフガニスタンではもうすでに20年以上,戦争に次ぐ戦争で,戦闘状態が途切れていないのである。教育を受ける機会もなく,働く場もなく,安定した収入もなく,治安も不安な地にに生まれた赤ん坊が,平和という状態を知らずに成人になり,また子供の親になっているのだ。彼らの手は銃しか握ったことがなく,銃を握り締めて死んでいく。


 そして,このような土地で暮らす人が心のよりどころにしているのがコーランであり,イスラム教だ。この宗教はご存知のように,人間が根源的に持つ願望を全て強烈に抑圧している。酒もタバコも恋愛もご法度である。しかし,抑圧された精神はどこかで噴出しなければバランスが取れない。そんな彼らの手には銃と手榴弾がある(・・・というか,それしかない)

 そして世界の一方には,「アメリカ教」を奉ずる巨大国家がある。何もなかった土地に新たに築き上げた史上最強の国家アメリカ,自分たちの独自の価値体系に揺るぎなき信仰を持つ超大国アメリカだ。この国は世界最大の宗教国家である。何しろこの3億近いアメリカ国民の85%がキリスト教徒であり,その半分が毎週日曜日に教会に通っているのだ。そこらのイスラム国家顔負けの熱狂的宗教国家である。プロテスタント最右翼のピューリタンたちが集まって作った国である。

 何しろ,この国は戦争で負けた経験がない。能天気なまでに「アメリカの正義」を信じ込んでいて,そういう正義を世界中に広めることが「神の福音」だと思い込んでいる。キリスト教原理主義とも言うべき福音主義者が,ピューリタニズムを世界に広めようと無邪気に信じ込んでいる。

 そんな超大国が一方的な言いがかりをつけて仕掛けたのが,イラク戦争だった。


 そして,宗教自体の持つ危うさの問題。

 たとえば,イエスは愛の人であるというのがキリスト教の常識である。だがキリストの愛は「信者限定の愛」である。
 イエスは次のように言っている。

「行って世界中の全ての人に福音を伝えなさい。信じて洗礼される人は救われ,信じない人は裁かれるでしょう」(マルコ伝)

 これは要するに,自分の教えを信じない連中は地獄に落ちるぞ,という断罪宣言である。何のことはない,キリスト教徒限定の「愛」なのである。自分の教えを信じない野蛮人どもは最後の審判の日に地獄に落ちて責め苦に苦しむから,その苦しむ様を天国から見物して楽しもうぜ,という意識が垣間見える(このあたりは,コーランも同様)

 一方のイスラム教はどうだろうか。イスラム教を礼賛する人は必ず,ジズヤ(人頭税)を例に出し,イスラム教は異教徒に寛大な愛の宗教だと自慢するが,これもコーランをよく読んでいない証拠である。コーランの一節には次のようにある。

「(イスラム教を)信じる人々よ,ユダヤ教徒やキリスト教徒を友としてはならない。アッラーの神が無法の民(=ユダヤ教徒,キリスト教徒)を導きたもうことはないのだ」。

 このほかにも,コーランには異教徒を蛇蝎のごとく攻撃する表現がいくらでも見つかる。要するにジズヤ(人頭税)とは,金を持っている異教徒は金ずるとして利用せよ,という程度のものだろう。その証拠に,ジズヤを払えない異教徒は国外追放されている。これでどこが「異教徒に寛大」なんだろうか。


 どちらの宗教も,人類愛なんて概念は初めからないのである。人類愛なんてのは,あとの時代でとってつけた言い訳なのであって,聖書やコーランを真面目に読めば,人類愛というのが戯言に過ぎないことは誰にだってわかる。


 イエスの言葉には端々に,「この世に邪悪なものが存在することは許さない」という強烈な意思が迸っている。美しい決意ではあるが,世間を知らない青二才の理想論,という解釈も成り立つはずだ。現在のアメリカがそうだが,若い文明,未熟な文明,できたばかりの宗教ほど「正邪二元論」を好む傾向がある。このイエスの言葉はそれが透けて見えないだろうか。
 若い教祖様が作った出来立てホヤホヤの未熟な宗教だったからこそ,「正しいもの」と「間違っているもの」を明確に分けたのだろうし,そういう判りやすさが信者を惹きつけたのではないだろうか。

 こういう「正邪二元論」を自分たちだけで信じているうちは害がないが,外部の人間にも布教しよう,となるとそれは単なる「押し付け」でしかない。要するに迷惑だ。しかし本人たちは善意の塊で布教しているもんだから,途中で止めると言うことを知らない。だから,信者と異教徒を「正邪二元論」で分けて考え,後者は悪だ,抹殺しろと,あたかも神様が言ったが如く信者に説くわけだ。


 このイエスの理想論をもっと強烈に純粋培養したのがルターだ。彼の攻撃対象は非キリスト教徒でなくカトリック信者だった。近親憎悪は強烈だというが,ルターが見せるカトリック教徒への不寛容さと好戦性は,はたから見れば異常にしかみえない。坊主憎けりゃ袈裟だけでなく,数珠も木魚も憎くなるのがルターである。

 そしてバチカンもまた,排他的である点ではルターに負けていない。15世紀に出された「フレーレンス公会議宣誓文」では,カトリック教徒以外の人間には存在意義がないとまで断言しているのだ。ルターもバチカンも,似たもの同士である。似ているからこそ,ちょっとした違いが憎悪の対象となる。

 どれもこれも,源流はイエスにあるといえるし,さらに遡れば,旧約聖書の最高神ヤハウェの異常な性格に原因がありそうだ。何しろ最高神のくせに,自分で「私は嫉妬の神である」と最初から自分で言っちゃうのがこの唯一神だ。最高神なのに誰に嫉妬しているんだろう,この神は? 唯一神は一人だけなんだから嫉妬する相手はいないはずだろ?


 さらにこのような宗教同士の紛争に加え,民族同士の紛争もある。もちろん,両者が合体するとその紛争は容赦ない大量虐殺の道をたどることになり,片方が片方を地球上から抹殺するまで続いてしまう。
 どちらにも大昔からの言い伝え(これに自民族の優位性と他民族の劣位性が巧妙に隠されて伝えられている)と,それぞれに「正しい神様」がついているのだから,途中で止めるわけにいかない。

 そして,そのような民族同士の憎悪をうまく煽って戦わせ,漁夫の利を得ようとする勢力もある。また,武器商人にとっては,どっちが勝とうと負けようと,武器さえ使ってくれればいいわけだから,紛争が終わりそうになると裏工作をして両者を反目させ,戦争が続くようにする連中もいる。

 また,職業軍人にとっては戦争状態がなくなることは失業を意味する。同様にゲリラにとっては,戦いを続けること自体が自分たちの存在意義となっている。このような理由から,どちらも停戦を望まず,停戦の機運が高まると何か問題を起こし,紛争が続くように細工をする。イスラエルの最強硬派のシャロンが,パレスチナ側の最強硬派と実は裏で通じていたことは有名である。道理で,停戦合意が成立しそうになると不思議に自爆テロやイスラエルによる突然の占領が強行されていたわけだ。


 この本の著者は「正義はあらゆる原理主義の別名である」と看破する。あるいは「宗教教団と軍隊は二卵性双生児だ」とも。

 軍隊も宗教教団も,個人の判断を消滅させることを目的としている。個人の考えを捨てさせ,一つの「正義」に従わせ,その「正義」の名のもとに行動することを強制する。僧侶の衣は,実は兵隊の着る軍服と同じなのだ。同じ衣を身にまとわせることは,個を捨てさせる基本戦略である。個が考えることを悪の所業として禁止するシンボルが,法衣であり軍服だ。

 だから,平和を求めるために宗教教団の力を借りるのは間違っている。宗教教団は,法衣をまとった軍隊なのだから・・・。


 では,どうしたらいいのか?

 この本の著者は言う。「宗教に依存するな。神には一人で立ち向かえ」と。今ここで自分が生きているという事実,そして自分の「いのち」が全ての人間の持つ「いのち」と同価値であることを感じ取ることから始めるしかないと。神とは畢竟,その「いのち」のことであり,「いのち」の連続そのものなのだと。

 「神には,たった一人で立ち向かえ」という最後の言葉が印象的であり,感動的だ。

(2005/01/12)

 

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