フォーレ『夜想曲第13番』


 フォーレの作品は大きく二つに分かれる。1906年ごろまでの優美な作品群(夜想曲で言えば第8番まで)と,それ以後の寡黙な作品群(夜想曲で言うと第9番以降である。
 前者を好む人,後者を好む人がいると思うが,恐らく両者は相容れないものだろうと思う。極端な話,前者の作品群が好きな人にとって後期の曲は色彩と豊かさに乏しいものであり,後者を好む人にとっては,初期・中期の作品は甘美過ぎ情緒的過ぎると感じるはずだ。それほど,フォーレの作品は20世紀初頭を境に,完全に断絶した様相を呈している。

 1906年以前のフォーレと言えば,息の長い旋律と芳醇な和声,そして豊かな響きが特徴だった。しかし,それ以後の作品では,長い旋律は影を潜め,短い動機が組み合わされたものとなり,装飾的な音はどこかに行ってしまい,非常に寡黙で禁欲的な音楽がその年表を飾っている。


 フォーレの晩年は,ベートーヴェンやスメタナと同様,耳疾患との戦いだった。そして彼の聴力は次第に失われていった。フォーレの作品の変貌が,この耳疾患と関連があるのかどうかについては私はよく知らないが,作曲家にとって聴力を失うと言うことがどれほど耐えがたい状況であるかは,誰にだって想像できる。極めて苛烈,酷烈な出来事だったはずだ。
 重要なことは,そのような状態にあってもフォーレが作曲を止めなかったことだ。運命を呪い,人を恨んだこともあったはずだ。だがしかし,彼は作曲の筆だけは折らなかった。その精神力に私は畏敬の念を覚える。


 フォーレは13曲の夜想曲を書いているが,第8番と第9番では全くその様相が異なっている。例えば,最も優美で繊細で壮大な第6番と,第9番の譜面を並べて見ればその違いは一目瞭然だ。
 第6番の音符はピアノの鍵盤全体に展開され,ペダルを十分に活用し,パッセージは変幻自在だ。しかし,第9番を見ると,ほとんど8分音符と4分音符が並んでいるだけで,使われているテクニックも単調。そして音楽として聞いてみても,音は最小限に切り詰められ,転調はいきなり訪れ,短2度は容赦なくぶつかり合う。ノクターンという曲名が許されるギリギリの極北に追い詰められた曲だ。


 私は初期から中期のフォーレを好んでいる。これは私の個人的な好みの結果であり,私の音楽的な資質の限界だろうと思う。
 私の葬式の時は,坊さんのお経なんて要らないから,ベートーヴェンの最後のソナタ,最後の弦楽四重奏のどれか(イ短調がいいな),『マタイ』の冒頭,そしてそれらと並んで,フォーレの『レクイエム』と『ラシーヌ頌歌』を流して欲しい。ただ一曲だけと言うのなら,『ラシーヌ頌歌』だ。この,20歳のフォーレの書いた限りなく純粋で汚れのない曲なら,私だって天国の入り口あたりまでは行けそうだ(行けるのはそのあたりまでだろうが・・・)


 そんな後期のフォーレのピアノ曲だが,夜想曲第12番,舟歌第12番,第13番と次第にピアノの扱い柔軟さが見られるようになり,自在さが復活する。そしてこの傾向は彼の最後のピアノ曲である『夜想曲第13番』で頂点に到達する。この曲において,フォーレの初期の作品の持つ若々しさと情熱と,後期の作品を特徴付ける熟慮と沈思が見事に溶け合い,見事に結実する。彼のそれまでのさまざまな作風が最高度の完成度で一つの作品に溶け合う。そして,一つの奇跡のピアノ曲が生まれる。

 この曲は間違いなくフォーレの最高傑作だ。そして,ありとあらゆるピアノ曲の中で最上位の曲である。これはベートーヴェンの最後のソナタの第2楽章と並んで,至高にして究極のピアノ音楽といっていいと思う。


 さて,曲はこのように始まる。


 バッハの『フーガの技法』,あるいはパレストリーナの合唱曲を思わせる美しい楽譜だ。ソプラノのメロディーに対し,テノールが1拍遅れでカノン風に入り,バスが反進行のように絡み合うが,教科書的な動きはどこにも見られず,いわば,各声部が独自に動きながら,それでいて全体が見事に有機的にまとまっている。天才の自在の筆捌きとはこういうものをいう。


 そして,4声部の動きがしばらく続いた後,解き放たれた様に左手に8分音符のアルペジオが登場する。それまで,息詰まるような対位法的楽節が続いていただけに,音楽は一挙にその視界を広げる。


 そして,その頂点で第2主題とも言うべきテーマが登場(下記の第2小節目のソプラノ)。それまで抑えていた感情を一気に爆発させ,音楽は限りなき憧憬と希求を歌い上げる。


 1拍ごとに変化する和声も実に美しい。
 そして,この主題が次第に力を失い,音量を弱めたところで,冒頭主題に戻るが,テノールは8分音符の半音階的な動きに終始する。


 そして,第2主題が低音で回想され,音楽はここで力尽きたように沈み込むが,突如として音量を増し,嬰ト短調の強烈な和音の一撃で力を解放し,嵐のような中間部に突入する。


 波涛のように押し寄せる3連符を背景に,高音で実に息の長い旋律が歌われ,和声は変幻自在に変化し,指は鍵盤を縦横無尽に疾走する。メロディーは次から次へと自在に紡ぎ出され,焦燥に満ち,悲愴でありながら誇りに満ちている。総ての音に熱い血潮が流れ,それを生み出す指の運動が心地よい。ピアノを弾く喜びがここにある。


 そして,それまでフォルテの連続だったが,弱音が連続する部分に入る。3連符を背景に,高音と低音で,第2主題が呼応し,非常に美しい。


 この後,中間部の冒頭に戻るが,第2主題が組み合わさっているため,音楽は緊迫感に満ち,左手のさりげない同音連打が極めて効果的だ。


 そして,中間部のクライマックスに!
 大きな波が押し寄せ,波頭がしぶきを上げて飛び散るようなアルペジオを背景に,力強い中間部主題の拡大形(正確に言うと,主題後半のみの拡大)が登場。なんという雄渾なピアノ書法! 鍵盤がうなりをあげピアノが全身で歓喜する。


 この大きな波涛が3度繰り返された後,音楽は長調に傾き,海原にかかる虹のような6度音程の上昇音階を生み出す。


 しかし音楽は次第に力を失い,音量を下げ,冒頭部分に戻る。


 第1主題は忠実に再現されるが,次第に感情を昂ぶらせ,号泣し,その後徐々に音量を弱め,名残を惜しむのかのように,何度も第2主題が形を変え,和声を変えて呼び起こされ,諦念と安寧の交錯のうちに曲は終末を迎え,7分間の壮大なドラマが幕を閉じる。


 この曲でフォーレは,ロ短調というフォーレの作品の中ではかなり珍しい調性を選んでいる。
 いうまでもなく,ロ短調は,バッハの『ロ短調ミサ』,『平均率第1巻の終曲』,『マタイ受難曲』の『主よ,あわれみたまえ』,シューベルトの『未完成』,ショパンの『スケルツォ 第1番』と『第3ソナタ』,リストの『ソナタ』,チャイコフスキーの『悲愴交響曲』,ドヴォルザークの『チェロ・コンチェルト』,ベルクの『ソナタ』の調性だ。
 いわば,古今東西の作曲家たちが,ここぞと言う場面で選び,傑作を書き残した調性だ。

 そういうロ短調というとっておきの調を選び,フォーレは最後に大傑作を書き残した。

(2007/03/03)

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