《遠い空の向こうに October Sky》 (1999年,アメリカ)


 体育会系熱血小説・映画もいいけれど,やはり理科系熱血映画の方が好きだ。この映画は,理系少年の熱い心と冷静な頭脳が心を打つ傑作である。そして同時に,少年の成長物語であり,父と子の葛藤の物語である。

 最後の10分間はもう胸が熱くなり,涙が止まらなくなってしまった。そして何より,技術系の工夫が丁寧にされていて物語に厚みを増している。やはり理系映画ってこうでなくっちゃいけない。観客に勇気を与えてくれる素晴らしい映画である。

 ちなみにこれは実話に基づいていて,主人公のホーマーは後にNASAの中心的エンジニアとして活躍し,多くの宇宙飛行士を育てた実在の人物である。この映画は彼の自伝,『ロケット・ボーイズ』を元にしている。


 主人公はウェスト・バージニアの片田舎にある炭坑町で暮らす高校生のホーマー。彼は1957年10月4日にロシアが打ち上げた世界初の人工衛星スプートニクが夜空に描く美しい軌跡に魅せられる(原題の『October Sky』はこれからきているのだろう)。いつか自分でも,ロケットを打ち上げてみたいと考えるようになる。とは言っても,そんな田舎にロケットの材料があるわけがない。それでまず手始めに,友達2人を仲間に引き入れ,懐中電灯の筒に火薬を詰めて打ち上げようとする。もちろん,打ち上がるはずはなく,庭の柵を壊してしまい,母親に叱られる羽目になる。

 もちろんそれにめげるホーマーではない。彼は自分たちに厳密な計算が欠けていることを知り,数学は得意だが人付き合いが下手で変人とされている同級生に声をかけ仲間に引き入れる。そんな彼らの姿を見て,担任の物理教師,ミス・ライリーが陰に日向に援助をし,必要な図書(宇宙工学やロケット物理)を購入しては彼らに与えるのだ。ライリーはホーマー達の中に,この田舎高校の生徒に欠けている向学心があり,それをなんとか育てようとしたのだ。彼らなら全米科学コンテストに出て賞が取れると考えたからだ。もしもそうなったら,大学からの奨学金も得られ,彼らの未来は大きく開けるはずだ。


 この街は炭坑町,つまり炭坑だけで生きている街だった。父も祖父もこの炭坑で働いていて,高校を卒業すれば自分も炭坑府として働くものだと考えている生徒ばかりだった。大学に進学したいのなら,アメフト・チームの主将になってフットボールで進学するしかない。そんな小さな閉鎖的な町だった。

 ホーマーの父は優秀な炭坑夫であり,炭坑の責任者として皆の信頼を得ていた。だから,いずれ自分の息子があとを継いでくれることを夢見ていた。父にとって炭坑で働くことがもっとも安定した生活であり,それが子供のためだと考えていた。ロケットは素晴らしいが所詮は遊びであり,それで生活できるわけがないと思っていた。子供のためを思えば当然である。しかしそんな父親にも,石炭が斜陽産業になりつつある,という現実がひたひたと迫っている。

 そんな街の片隅で,ホーマー達4人はロケットの打ち上げ実験を続ける。最初はもちろん上がるどころではなく,暴発の連続である。上がったとしてもまっすぐに飛ばず,自分たちの方に向かってくるから実験も命がけである。設計図段階ではうまく行くはずなのに,その通りに精密加工ができていないし,部品の強度も不足しているから当たり前である。

 そこで,炭坑で働く技術者に溶接をしてもらい,旋盤の技術を教えてもらう。強度の高い鉄鋼を得るため,廃船になった鉄道路線から線路を持ち出し(=盗み出し?),それから鉄鋼を作る技術を身につけていく。彼らは地道に,そして愚直に一歩一歩ロケット技術の発達の歴史を踏みしめ,追体験していく。


 初めは「変なことをしている学生達」くらいに見ていた町の人々も,発射実験の日になると物見遊山気分で集まり始め,手作りロケットが空高く舞い上がる様子を見て喝采の拍手をおくり,熱狂する。

 そんなある日,炭鉱で事故が起こる。炭坑に入っていた父親は仲間を助けるために奮闘して目を負傷し,失明の危険すらあると医者に宣告を受ける。しかし会社は治療費を全て負担しないと言う。
 そこでホーマーは学校を辞め,ロケットの夢を諦めて炭坑で働くことになる。やがて,失明の危機を乗り越えた父親も同じ炭坑に戻り,「さすがは蛙の子は蛙,いい炭坑マンになりますぜ」という息子の評判が何より嬉しく誇らしい。

 しかし,ホーマーの元に,恩師のライリー先生が重病であるという連絡が入る。ホジキン病である。彼女を訪ねたホーマーはそこで,忘れようと押さえつけていたロケットへの情熱を取り戻してしまう。封印していたはずのロケット工学の本を手に取り,一晩中,軌道計算に没頭する。そして彼は父に,2度と炭坑には戻らないことを宣言する。

 その頃,炭坑閉鎖の噂が流れてしまい,労働争議は激しくなり,炭坑夫たちはストライキを決行する。


 そんな中でホーマーたちは地域の科学コンテストで最優秀賞を受賞し,州大会への出場権を得る。規定により,ホーマーはただ一人,ロケットを持って会場に向かう。そこでの彼のプレゼンテーションは上々の評判だった。あとは最終日を待つだけだった。

 しかし,その会場で展示していたロケットと心臓部分であるノズルが盗まれる。明日の最終コンテストに望むためには,今日中にロケットとノズルを作り直すしかない。彼は故郷の仲間に電話連絡をする。だが,作り直す技術者はいるが,機械はストライキで封鎖されている炭坑にしかない。万策尽きたかと思われたとき,父親が息子のために立ち上がる。やがて旋盤が唸りを上げて部品を削りだしていく。夜を徹しての作業が続く。


 スプートニクが打ち上げられたのは1957年,つまり,私が生まれた年である。要するに,《Always 三丁目の夕日》と同時代である。当時の日本はまだ貧しかった。秋田県の片田舎にあった私の家にテレビ(もちろん白黒)が入ったのは東京オリンピックの1964年だったと記憶しているし,日本全体がそういう感じだったと思う。

 その頃のアメリカはどういう状況だったのだったのかはよく知らないが,いかにアメリカといえども,田舎町の高校生4人がロケットを打ち上げるのは無茶だったと思う。部品がまず集められないし,参考書と言ってもごく一部の専門書以外は専門雑誌の論文しかなかったはずだ。田舎の炭坑町の高校生にとっては入手することすら難しかったはずだ。

 そのような状況下で,彼らがロケットを自力で打ち上げたいという夢に邁進し,それを実現したのはまさに奇跡である。「夢はかなえるもの」という言葉があるが,あの時代の田舎町で彼らが夢を忘れず,ついにはそれを実現させたというのはどれほど強い意志が必要だったか,それが胸を熱くさせる。

 映画の中でも繰り返し,ホーマーがフォン・ブラウン博士に勇気を奮って手紙を出し,本人から直接返事をもらい,それで情熱を保ち続けることができた様子が描かれている。ブラウンにとっても,自分と同じ夢を持っている高校生の手紙は嬉しかったはずだ。だからこそ,丁寧に返事を書いたのだろう。そういう熱い心が,彼のあとを継ぐ宇宙工学の指導者を生むことになったのだろう。

(2006/10/31)

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