《フォーガットン》 (2004年,アメリカ)


 前半は緊迫したムードが漂う良質のミステリー。ところが後半,ネタがばれたとたんにアハハ,となっちゃう作品だ。あまりに安易な真相が明らかになって,笑っちゃったぞ。主演のジュリアン・ムーアの迫真の演技がなんとも痛い感じである。


 主人公は愛する息子を飛行機事故で失い,そこからなかなか立ち直れない母親だ。事故から14ヶ月経過しているが,写真を見ては泣き,遺品を手にとっては泣き,ビデオを見てはまた泣くという生活を送っていて,精神科医の治療も受けている。

 ところがある日,夫と子供が写っていたはずの写真から子供の姿だけが消えているのだ。そればかりか息子を撮影したビデオは消去されている。しかも夫は「私たちに息子はいない。君は1年前に死産したんだ。そのショックで幻覚を見るようになり,治療を受けているじゃないか」と言うではないか。精神科医も「ようやく子供の顔が見えなくなったのか。今まで見えないものを見ていたんだ,君は」というのである。近所に住んでいる息子の友達の父親(元アイスホッケーの選手だったかな?)も自分には娘がなく,第一,君に会った事もないと言う。

 要するに,自分以外の全ての人間は息子のことを覚えていないのだ。それどころか,息子がいたという証拠の品々がことごとく消えてしまっているのだ。


 このあたりで大体30分経過で,残り60分ほど残っている。さて,このあたりまで見ていて,映画の後半で明かされるであろう「事件の真相」は想像してみよう。真相は息子が実在したか,していないか,二つに一つしかない。「息子はいなかった」は真相としては無理はないが,残り60分を持たせるのはさすがに辛い。「息子は実在した」の場合,SF風の展開が可能となるが,それまでのシリアスな展開とちょっと違和感が生じる。ま,常識的にはこっちの展開かな,と思いながら,続きを見よう。


 図書館で14ヶ月前の新聞を見ても,あの飛行機事故を報じる記事はどの新聞にも書かれていない。しかし,自分に子供がいたことは紛れない事実である。そして,事件の真相を探ろうとする彼女の前に,国家安全保障局が現れ,彼女を拉致しようとする。

 このあたりから,オイオイ,という雰囲気が漂ってくる。だって国家安全保障局ですぜ。国家機関がからんでくるんですぜ。いきなり唐突に国家ですぜ。

 そりゃあ確かに,彼女の周囲の人間の記憶だけが抜け落ちるというくらいならまだしも,あらゆる新聞からその事件の記事だけ消えているということになると,国とかそっちの方向の関与が絶対不可欠になり,この方向に行かざるを得なくなるのは理解できる,というかそれしかない。

 しかしそのため,これまでの緊迫した心理劇風ドラマが,一気にSF風というか,国家陰謀風というか,そっちの方向に一挙に方向転換してしまうのだ。

 しかも国家安全保障局の背後に○○がいるんだよ。うひゃあ,そっちに行っちゃったよ,この映画。ここまで来ると笑っちゃうしかないな。実はこの事件というのは,「母とこの結びつきの強さ」を調べるために○○が行った事件だということが明らかにされます。ま,ほとんどの人は○○が何かおわかりですよね。


 とまあ,こんな映画であるが,ジュリアン・ムーアの熱演ぶりとお笑い系になりかねない事件の真相とのミスマッチぶりに違和感を感じるか,何でもありでいいんじゃないのと思うかで,この映画に対する評価は違ってくると思う。私としては,「○○だけは絡んでこないよね,さすがに」と思いながら見ていただけに,○○が登場したところで失笑してしまった。

 それにしても,幾つかの点が気になってしょうがない。まず,○○が彼女の子供に関する記憶だけ消してしまう方法・手段が全く説明されていない。「○○だから何でもできるんだ」程度の説明すらないのは明らかに不自然。

 それと,「母と子の結びつきの強さ」調査はいいとして,そのために飛行機事故をでっち上げるというのは,あまりにも大がかり過ぎるんじゃないだろうか。この調査のためだったら,子供を一人ずつ拉致する方法にした方が証拠を残しにくいはずだ。飛行機事故だと子供を一気に何人も拉致できるというメリットはあるが,どうしても証拠が残ってしまう。
 「母と子の関係だけが理解できなかったから」という実験目的の説明もなんだかなあ。なんで,それだけが理解できなかったの?

 それと,事件の黒幕である○○と国家安全保障局の関係も最後まで不明。


 何というか,基本的設定の部分でどっか間違った方向に行ってしまった映画じゃないだろうか。

(2006/09/06)

 

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