《シンデレラマン》 (2005年,アメリカ)


 久々に映画を見て泣いた。泣いてしまった。アメリカのスポーツ映画には傑作が多いが,その予想を裏切らない素晴らしい映画だった。
 もしもあなたが挫けそうになったとき,諦めようと思ったとき,投げ出して逃げようと思ったとき,この映画を思い出し,見て欲しい。必ず,助けてくれるはずだ。勇気付けてくれるはずだ。


 主人公のジミー・ブラドックは若手の有望なボクサーだった。右ストレートを武器にもう少しで世界タイトルに手が届くところまで来ていた。しかし,チャンピオンへの挑戦権を争う試合で彼は右手を骨折し,負けてしまう。おまけに,無気力試合をしたという理由でライセンスも奪われる。失意の彼を時代が追い打ちをかける。1929年に始まる大恐慌である。まさにこの時,彼は失業してしまったのだ。

 しかし彼には妻と3人の幼い子供がいた。生活のために港湾労働者の列に並ぶが滅多に仕事にありつけない。そして電気代も払えなくなり,アパートの電気も止められるようなギリギリの生活にあえいでいた。


 そんな彼に,かつてのプロモーターから,一晩だけリングに立って欲しいと誘いがある。タイトルマッチの前座のボクサーが負傷で試合ができなくなり,急遽相手を捜さなければならなくなり,もう何年もリングから遠ざかっていたジミーに声をかけたのだ。リングに上がっただけで250ドル払うという。要するに「咬ませ犬」である。しかし,今のジミーにとっては大金だ。「咬ませ犬」役だとわかっても断れない。

 そして試合。誰もが彼の無惨な負けを予想していたのに,「咬ませ犬」のはずの彼は勝利する。その一試合の予定だったが,かつての彼を知っていたファンたちは熱狂する。今まで自分たちと一緒に食糧配給の列に並んでいたどん底の男が,奇跡の復活を遂げたからだ。

 その声に押されるように,ボクシング協会もライセンスを返還し,彼はまたリングに上がるようになる。かつての彼には「リングに立つ目的」がなかったが,今ははっきりしている。子供たちを育てるためだ。家族で一緒に暮らすためだ。ミルクのためだ。だから彼は負けるわけにはいかない。また,プロモーターも彼のトレーニング費用を捻出するため,家財道具を売り払っている。彼も崖っぷちなのだ。全てを背負って,ジミーはリングに立つ。


 彼は連勝街道を驀進する。大恐慌で失意のどん底にあり,這い上がるチャンスすらない多くの民衆が彼の活躍に熱狂する。自分たちの希望の星として彼を応援するようになる。彼が勝つたびに,やがて自分たちにも復活の日が来るはずだと信じるようになる。いつしか彼はシンデレラマンと呼ばれるようになった。

 そしてついに,タイトルマッチに挑戦するチャンスが訪れる。しかし,現チャンピオンは若くてタフで狂犬のように拳を叩きつけてくるストリート・ファイターのようなボクサーだ。おまけにこれまで,リングで2人を殺している。

 ジミーの妻は必死になって試合を拒否するように懇願する。彼がリングで殺され,棺で帰ってくることを恐れている。ジミーがタイトルマッチの場に向かっている最中,妻は彼の無事を祈るために教会に行くが,そこで教会の席が一杯になっているのを見る。牧師が,皆,ジミーの勝利を祈るために集まっているのだと伝える。彼女はジミーの「闘い」の意味を知る。

 そして,死闘の開始を告げるゴングが鳴り,凄絶な闘いが幕を開け,リングが血で染まる。


 あまりにもできすぎたストーリーのように思われるだろうが,実はこれは実話なのである。本当に彼のようなボクサーがいたのだと言う。まず,その凄さに圧倒される。

 ジミー役のラッセル・クロウがいい。家族思いの誠実一路な表情で,目が知的で優しい。今までのボクシング映画であまり登場しなかったタイプだと思う。ボクサーというより,教会の牧師さんみたいだ。しかし,彼の顔からは家族を思う必死さが強く伝わってくる。一見強そうに見えない彼だが,彼の目は,守るものを持つ男の強さとはこういうものだ,と雄弁に語っている。

 そして何より,ボクシングシーンの迫力が凄まじい。骨がきしみ,肉が悲鳴を上げる痛みが伝わってくる。ストレートが顔を捉えるシーンでは本当に顔がゆがんでいる。肉体がぶつかり合う凄みが画面からあふれ出る。このボクシングシーンの迫真性が圧倒的だ。これを見てしまうと,『ロッキー』のボクシングシーンが「台本のあるボクシングのまねごと」に見えてしまう。

 ラストにその後の彼の人生を伝えるテロップが流れるが,これがまた感動を深くする。


 この映画を見ていて,不屈のボクサー,輪島功一を描いたノンフィクションを思い出した。沢木耕太郎の『敗れざる者たち』という本の最後を飾る『ドランカー<酔いどれ>』という短編である。彼は今でこそ,たまにテレビに出てはへらへら笑っている団子屋のオヤジだが,実は真に偉大なボクサーだったのだ。
 彼は一度は世界チャンピオンになりながら若き韓国の挑戦者,柳済斗に敗れた。彼はこの時,32歳とボクサーとしては高齢だった。誰もがここで輪島は引退すると思っていた。しかし彼はリターンマッチに挑むのである。そしてその絶対不利な状況で彼はフルラウンドを闘い,チャンピオンベルトを奪還するのだ。

その試合を描いた傑作が『ドランカー<酔いどれ>』である。この中で何度か,"Stand and Fight" という言葉が登場する。ジミーのタイトルマッチでの闘いはまさに,「踏みとどまって闘う」姿そのものだ。ジミーの姿にこの沢木耕太郎の短編が重なって見えた。

 このノンフィクションの一部を引用させていただく。

 輪島功一は,壊れかかった発動機を載せた小舟で大海に出ていく漁師のようなものだった。しかしそれは,無謀と言うよりおそらくは勇気あふれる航海であり,白布に覆われたキャンバスという名の海を突き進むその後ろ姿は,一瞬,蒼く輝いた。

 第六,第七ラウンドと輪島は追った。追いつづけ追いつづけ,また追いつづけた。リングの上を走るように追った。彼が打たれていないわけではなかった。それ以上に打っていただけなのだ。(中略)今,輪島功一という小さな老いたボクサーは,敵を追いつめようとリングの上を疾走していた。

 この瞬間から,彼の試合のテーマは,柳を追いつめることではなく,輪島自身を追いつめることに変わった。輪島は,彼以上の彼になるために,柳を追った。

 20代の沢木耕太郎の名文である。


 ちなみに,この沢木の本のタイトル『敗れざる者たち』は,ヘミングウェイの短編,"The Undefeated"(邦題「敗れざる男」)から取っている。この小説も熱い。


 この文章を書き上げてテレビを見ていたら,14日夜のNHKのニュース番組にカシアス内藤が出演していた。上記の『敗れざる者たち』は『クレイになれなかった男』で始まる。カシアス・クレイ(モハメド・アリ)と同じリングネームを持ち,溢れるような才能を持ちながら,最後まで中途半端な試合しかできなかったカシアス内藤を主人公にした作品だ。また,沢木耕太郎は彼を主人公にした『一瞬の夏』という傑作も書いている。

 私がたまたまボクシングを題材にした映画の感想を書き,そこでたまたま,昔読んだ本のことを思い出し,その主人公がたまたまテレビに出るなんて,偶然にしてもできすぎだ。

 こういうときには,いやいやながらでも「神」という言葉を使おう。

 ボクシングにおいて,神は常に遍在する

(2006/05/15)

 

 新しい創傷治療   なつい
キズとやけどのクリニック
 
 湿潤治療:医師リスト