『カビの常識 人間の非常識』(井上真由美,平凡社新書)


 物事は一方からだけ見ていてはわからない事が多いよ,というのは永遠の真理である。立場を変えてみるだけで,思いがけない解決法が見つかる事は,誰でも経験していると思う。

 例えば,「寝たきりでフォーレカテーテルが入っていておしっこがドロドロして細菌が検出されます。どうしたらいいでしょう」なんて問題も,膀胱をどうやって洗浄しようとか,抗生剤は何がいい,なんて方向でだけ考えたら,永遠に答えが見つからない。この難問の正解は「カテーテルはそのままでいいから腹臥位にする」ですね。なぜそれで解決するか,考えると面白いよ。興味があったら【腹臥位療法】をインターネットで調べてみようね。


 さて,このカビの本は,以前紹介した『人体常在菌のはなし -美人は菌でつくられる-』と双璧をなすものであり,医者・看護師を問わず,医療関係者ならどちらも絶対に読むべきだと思う。病気に対する考えが根底から覆されます。

 本書の著者は1918年の微生物学者(ちなみに「真由美」という名前ですが男性ですね)。生年から考えると,恐らく60年に及ぶ研究生活を送っていらっしゃる方だろう。60年間,微生物を研究しているんだから,当然,微生物が可愛くってしょうがない。微生物の素晴らしさ,能力,強さを皆に知って欲しくて欲しくて,たまらないのだろう。そういう微生物に対する愛情がヒシヒシと感じられる文章である。なにか考えるにしても,人間よりでなく,微生物より,微生物の側に立った視点になってしまうし,微生物の応援をしてしまう。

 私はこういう研究者が大好きだ。尊敬できる研究者ってのはこういう人だ


 例えば,カビ(微生物)が分解できるものは限りない。本書によると,セルロース,リグニン,アンモニア,硫酸,鉄,銅,アルミニウム,水銀化合物,メタン,エタン,パラフィン,ナフタレン,重油,アルコール,フェノール,青酸ソーダ,DDT,有機農薬,有害化学物質なんだそうだ。銅やアルミといった無機物だろうが,青酸ソーダ,硫酸という劇物だろうが,農薬だろうがヒ素だろうが,いつの間にかカビが生えて分解をはじめるらしい。

 何しろ,1億個に1個の割合で突然変異を起こしちゃうから,生育困難な環境でも時間さえあれば適応してしまうのだ。その結果,農薬のパラチオン,有機水銀,除草剤まで分解するのが出現しているのだ。


 例えば,航空自衛隊のジェット戦闘機のアルミニウム合金製のタンクに孔があいて燃料が漏れ出た事があるらしいが,それがまさにカビだった。アルミニウムなんて食べて美味しいのかい? と言いたくなるが,分解しちゃえるんだからしょうがない。

 カメラのガラス製レンズにカビが生える事は,カメラ愛好者なら誰でも知っていると思う。

 もちろんプラスチックに好んで生えるカビもいる。例えば,あなたの家にある洗濯機のドラムを調べると,多分,カビで真っ黒になっているはずだ。この本の筆者によると,洗濯機を作っているメーカーから「抗菌剤を配合したプラスチックでドラムが作れないだろうか」と相談を受けたそうだが,人体の汚れと洗剤がプラスチックに付着して厚い創となってしまうため,プラスチック表面の抗菌剤は全く無効だそうだ。なるほどね。

 メッキに使う濃硫酸にもカビが生える。何とこのカビは,濃硫酸がないと生きていけない奴らしい。


 この本によると,「味噌と醤油の国なんだから,カビが生えないものを見つけるのは不可能」とのことだ。

 逆にこういう微生物の能力を使えば,プラスチックを分解したり,有機水銀やヒ素を分解してくれる事になる。こういうカビ(微生物)の能力を使えるかどうかが,環境問題を左右するんじゃないだろうか。


 こういう著者にかかると,風呂のカビ取りスプレー水虫治療もいかにおかしな事をしているかがよくわかる。

 例えばカビ取りスプレー。これには次亜塩素酸ナトリウム(=漂白剤)が含まれているので風呂場に生えるカビの黒い色素は漂泊されて消えてしまうように見える。事実,いくらカビでも強アルカリ性には弱いらしい。しかし,カビ取りした後にタイルに水をかけると折角の強アルカリも流れてしまいすぐにカビが生えてくる。これを繰り返すと,カビ取りスプレーに耐性を持つものが生まれるそうだ。

 じゃあ,どうしたらいいかと言うと,以前取り上げた【健康で長持ちの家が一番】という本と同じで,カビが生えないようにするしかないらしい。具体的には,入浴後はすぐに窓を開けるか換気扇を動かして換気し,壁や浴槽の水分は雑巾やタオルで拭き取る・・・と,これでいいらしい。
 要するに,カビが生えやすい環境を作っておいて,カビが生えて困ったわ,という方が間違っているんだと。「健康に悪い家だからカビが生えるんだ」と言う言葉は強烈である。


 あるいは市販の水虫薬。これを一生懸命に塗ったり,抗水虫剤入り靴下を履いていると,一時良くなったように見えて,その後更に悪化する事があるそうだ。皮膚常在菌叢に悪影響があるためでは,というのがこの本の著者の考えだ。

 こういう時は,なぜ日本で水虫が多いかを知らないといけない。こう書くとすぐに日本人は「高温多湿だからしょうがない」と考えるが,それが間違いの元。日本の靴は形が崩れないようにする目的で,ポリウレタン製の人工皮革が靴底の中間層に使われているらしい。このために通気性が悪くなる。おまけにポリウレタン自体がカビの好物らしい。こういう靴をはき続けていれば,水虫が生えてこない方が難しい。

 ではどうするかというと,靴を何足も揃えて10日ごとに取り替え,一度履いた靴は数ヶ月間乾燥させるだけでいいそうだ。また,靴も本物の皮だけ使っているものにすべきとの事。要するに,カビが生えにくい環境を作ってやれば,水虫なんてすぐに治るし,再発もしないそうだ。

 筆者はここで「カビの研究者としては,殺菌する相手は靴下と靴であり,足の皮膚ではない事を理解して欲しい」と強調しているが,医師・看護師・医療関係者はこの言葉の重みを噛みしめるべきだろう。


 そのほかにも,「O-157患者が出たのはアメリカ,カナダ,日本,ドイツ,フランス,イギリス,オランダなどの抗生剤を豊富に使える国ばかりで,インド,アフリカでは患者が発生していない」なんて指摘もあり,面白いよ。

 要するに,カビを気持ちの悪い厄介物と考え,防止対策に熱中すると,いずれしっぺ返しがくるという事だろう。カビは生えやすい環境だから生え,生えにくい環境では必死に適応して生えてくるわけだ。おまけにこの国は「醤油と味噌の国」,つまり,カビが生えて来やすい風土であり,その風土を根こそぎ変えるのは不可能だ。そういう事実をまず認め,カビと共存する事を考えるべき,というのが著者の結論であり,私もこの考えに賛成だ。


 人間の側からだけ考えると,カビ・細菌は厄介物だ。だからカビや細菌を全てなくせば,感染症が撲滅でき,健康な生活ができるんじゃないかと考えてしまう。でも,細菌感染しないように皮膚を頻回に消毒するとかえって感染に弱くなるし,消毒薬でうがいを頻回に繰り返すと,口中にカビが生えてきて手が付けられなくなる。

 健康な皮膚常在菌と腸内細菌がいてこそ健康が維持でき,カビと上手に共存する事が健康な生活と健康な住環境の眼目らしい。

(2004/12/20)

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