『歪められた日本神話』(萩野貞樹,PHP新書)


 古事記や日本書紀にある「日本という国はどのように作られたのか」という創世神話が書かれている。この部分を巡る「古事記研究者」の間で主流とされる学説をめった切りし,グシャグシャに踏み潰し,まとめてゴミ箱に捨てちゃえ,というのがこの本の趣旨である。内容ももちろん面白いが,とにかく著者の喧嘩の売り方,悪口のうまさ,比喩の巧みさ・面白さが半端じゃないのである。俎上に載せる相手の文章を取り上げ,その矛盾点を鋭く突き,返す刀で一刀両断する様は痛快だ。
 例えば次のような文章である。ううむ,面白いのである。特に「ニキビの論理」なんて,唸ってしまったぞ。。


 本書で批判されている各学説のオリジナルの文章を知らないため,「批判者の目を通して批判されている文章を読む」事になるという問題はあるが,多勢に無勢の考えがあり,無勢側が多勢側を批判し,その論理が理に適っているものであれば,私は取りあえず無勢側の肩を持つ事にしている。批判する方によほどの自信がなければ批判できないからだ。私の基本的スタンス,ってところである。


 さて,本書を見ると日本書紀や古事記の「神話部分」については,「それは神話ではなく,過去にあった事実をもとに神話仕立てのお話を作り上げたものだ。作ったのは支配勢力であり,支配者側の権威を高めるために彼らが自分達に都合がいいようにでっち上げたものだ」という説が学会の主流派らしい。

 だから,例えば「八岐大蛇」は出雲を流れる8つの子流を持つ川で,「スサノオによる八岐大蛇退治」とはこの川の治水に成功したということだし,高天原とはすなわち征服者の軍事基地を指すし,天孫降臨とは異人漂着として説明されるそうである。要するに,古事記や日本書紀に書かれている内容を「実際にあった事」として科学的に説明しようとするものらしい。

 そして本書によれば,そのように「科学的説明」をしようとする学者達の考えの基本は,「古事記は神話でないし,神話であるはずがない。神話でないから事実を伝えるために書かれたものに決まっている」というものらしい。そしてどうも,これは戦前の「日本は神国である」という皇国史観への反発であり,マルクス主義史観を根底に歴史を捉えなおそうとする考えがあるのだという。


 それに対し,本書の著者の考えは明確そのものだ。一言で言えば「古事記は神話をまとめたものであり,これは世界中の民族が独自の神話を持っているのと同じ。神話は神話として読めばいいのであり,合理的に解釈する方が間違っている」という事になる。単純明快である。
 本書を引用するとこうなる。

高天原(たかまのはら)は高天にあったのである。八岐大蛇は八頭八尾の大蛇だったし天孫は天から降臨したのである。神が結婚したならそれは結婚したのである。文字さえ読めるならば,そこになんの疑問もあるまい。私は本書でひたすらその事を書いた。こんなに単純な本はめったにないだろう。

 ローマ神話,ギリシャ神話に限らず,世界中の民族はそれぞれ独自の神話を持っている。それを読めば,女神が島を生み,火や土から生物が生まれ,動物と神の間に子供ができ,死んだ人間が蘇り,化け物や妖怪が活躍する話ばかりだ。こういうお伽話を真に受ける人間がいたら,あんたバカじゃないの,と言われるのがオチだろう。言い伝えなんだから何でもありと考えるのが当然だろう。天から剣が降って来ようが,オオカミに育てられた人間が国王になろうが,頭が8つある蛇がいようが,島をひと呑みにする大魚がいようが,一向に構わないのである。

 こう考えると,神話に合理的説明をつけようとするのが馬鹿馬鹿しくなってくる。たかがお伽話にムキになるんじゃないよ,と言いたくなってくる。もしも本書で指摘しているように,「古事記を論理的に解釈する」のが学会の主流だとしたら,これはかなりレベルが低い業界じゃないかという気がしてくる。


 あるいは,乱暴の限りを尽くした「荒ぶるもの」であるスサノヲが,八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して「荒ぶるものを平定する」のは性格的に矛盾していて,これは2つの神話が結合したと言う学説があるそうである。
 これだってちょっと考えれば,「乱暴者だったスサノヲが改心したんだね。よかったね」の一言で決着がつく。改心してキリスト教の牧師さんになったヤクザだって現実にいるのである。それに比べれば,スサノヲの行動なんて矛盾の部類には入らないと思うぞ。

 それなのになぜか「結合された2つの神話探し」をする学者先生ばかりいるらしいのである。こういう連中に本書では次のように,鋭くツッコミをいれて一刀両断しちゃう。

ところで,私はいま,なにか非常につまらないことを言っているような気がする。神にしても人にしてもいろいろな表情を見せるなどと言う事は,幼児でも知らぬ者のないまったくあたりまえのことである。大の男,大の大人が黒けむりをあげて主張するような話ではあるまい


 そういえば以前,何かの本を読んだ時に,万葉集の研究家は「万葉人はおおらかで素朴で裏表がなく,思った事をそのまま表現し,作為なんて考えもしなかった」ということを前提にして考える癖がある,というようなことがあった。要するに,大昔の人間は素朴で純情で単純だった,と考えちゃうわけである。「万葉人はおおらか」という枕詞を無条件・無批判に信じちゃっているわけだ。
 多分これは,大昔の人間をバカにしているわけで,万葉人を侮辱しているようなものだろう。
 大昔の人間は私達とは違っていた,と考えるよりは,自分達と同じだろうと考える方が素直だと思うがどうだろうか。

 だから多分,万葉人も私達と同じで,都合の悪い事は隠して書かなかったろうし,都合のいいように事実をねじまげて書く事もあったろうし,美化することもあれば,わざと人のことを悪く書く事もあっただろう。そう考える方が自然だ。

 古事記も日本書紀も同じだろうと思う。昔から言い伝えられてきた訳のわからない話は,訳がわからないままに書くだろうし,あまりに取りとめない話は整理するだろうし,場合によっては「面倒だから省いちゃえ」としたかもしれない。


 こういう本を読むと,他人の書いたもの,他人の出したデータを鵜呑みにする事がいかに馬鹿げているかがよくわかる。例えば,自分で実験をして論文を書く事を考えてみて欲しい。あなたは実験で得られた全てのデータを嘘偽りなく載せただろうか。都合の悪いデータは省き,都合のよい結果が得られるまで実験を続けなかったろうか。

 もしもあなたがこういう論文を書いた事があれば,他の人がそれをしていない保障はどこにもない。自分はちょっと嘘を書いた事があるけれど,自分以外の全ての研究者は誠実で裏表がなく,曇りのない目でデータを見て,嘘偽りのない論文を書いていると考えたら,それはちょっと無理がある。


 話を古事記に戻すと,現在の学会の主流とされる考えは要するに,「当時の支配者階級が自分に都合がいいように適当に作ったのが古事記だ。しかし古事記に書かれている事には全て事実が書かれているはずだ」という事になると思う。つまり「書いた動機は不純だけど,大昔の純朴な人が書いたんだから真実しか書かれていないはずだ」という事であり,どう考えても無理があるし,論理が矛盾している。

 要するにこの本は,「どう考えても無理じゃないの」という学説をまっとうに批判しているだけである。まぁ,まっとうな批判が異端と考えられるのは世の常だけどね。

(2004/05/17)

 

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