サザエさんか巨人の星か?
長期に連載されている漫画がある。『ゴルゴ13』や『こちら亀有~』,『あぶさん』,古くは『巨人の星』や『あしたのジョー』なんかが思い浮かぶ。
 そして,これらは二つのパターンに分類できるのだ。
 なお,ここで取り上げる作品には,最近の「少年漫画雑誌」(マガジンとかジャンプとか・・・)で連載されているものは含まれないが,これは私がこれらの雑誌を読まなく(読めなく)なったため・・・言い換えれば,歳を取ったなあ,というのが原因である。やはり,自分の子供と同じ漫画雑誌は読むのはちょっと恥ずかしものである。

 まぁ,それはさておいて,二つのパターンとは何か。
 一つは「サザエさん型」,もう一つは「巨人の星型」である。両者を分けるのは時間軸の設定であり,人間関係の変化があるかどうかである。言い換えれば「時間の進行」があるかどうか,と言ってもいいだろう。

 「巨人の星」の場合,主人公は物語の進行とともに相応に年齢を加え,また,主人公を取り巻く人間関係も微妙に変化していった。
 しかし「サザエさん」では,四季の変化はあるが時間は進行していない。そのため,たらちゃんは幼稚園に行かないし,いくらちゃんは「バブバブ」しか言語を習得していない。あれだけ勤続年数が長いのに,ますおさんが昇進したと言う話も聞かない。
 さて,長期連載漫画を作るとすればどちらが楽かと言えば,これはもう圧倒的に「サザエさん型」であろう。
 「巨人の星型」を作ろうとすれば,全体のシナリオがしっかりしていないと駄目だし,登場人物の造形も重要だ。もちろん,「巨人の星型」を目指して作り始め,次第に細部に拘泥するあまり方向をすっかり見失い,破綻のうちに最終回を迎えたあの伝説的怪作『アストロ球団』なんてもそれなりに味わい深いものがあるが(・・・どこがじゃ),やはりこれは「巨人の星型」グループとしては異端の,そして破綻の存在だろう。
 一方,「サザエさん型」は人物の年齢は変化しないし,人間関係も変化しないから,四季折々のイベントに人情話をはさんでいけば,いくらでも話は続けられる。「水戸黄門」と同じで,そのワンパターンこそが読者(聴衆)を安心させるのだ。
 それにしても,サザエさん一家は本当に旅行好きである。月に10日くらいは旅行している感じだが(・・・とはいっても,私がこの番組を見なくなって20年以上経つため,今は違うのかもしれないが・・・),これは観光地の方から「是非,番組で旅行先として取り上げて欲しい」という希望が引きもきらないためらしい。
 この「サザエさん型」の典型は「うる星やつら」,あるいは「ビー・バップ・ハイスクール」,あるいは「ナナハン・ライダー」だろう。「うる星」の場合,クリスマスやらバレンタインやら夏休みやら,次々とイベントは起こるものの諸星君が進級したと言う話はついぞ登場しなかった。「ナナハン」は一応,高校生の1年間(だったかな?)を追った物語だったと思うが,時間の経過が余りに遅すぎ,事実上「サザエさん型」に入れて差し支えないと思う。

 「サザエさん型」では人間関係は変化しないと書いたが,もちろん,登場人物の性格も終始一貫している必要がある。「サザエさん」の場合,カツオはいたずらっ子でなければいけないし,サザエはそそっかしくなければいけないし,波平は頑固親父でなければいけない。
 もちろんこれは,「ドラえもん」でも共通している。ノビ太はあれほどの大冒険,人類史を揺るがすような大仕事をやってのけているわりには,人間的な成長は全く見えず,宿題を忘れては立たされている。これほどの冒険を経験していながら,全くそれから学んでいない,というのは学習能力の欠如としか言いようがない(・・・ってことは,森前首相はノビ太級だな・・・きっと)

 『ゴルゴ13』はどうだろうか。これは連載当初は「巨人の星型」で作り始めたのではないかと思う。最初の方を今読んでみると,年齢は20代後半くらい(?)であり,途中までは年齢が順次上がっていったような形跡がある。また,突然右手の自由が利かなくなる奇病(ギラン・バレー症候群などの疾患名が取りざたされていましたね)にかかったこともある(・・・あの病気,いつ治ったのでしょうか? 気になってしょうがないぞ)
 しかしいつの頃からか,ゴルゴ13の年齢は変化しなくなった。しかし,その時々の時事問題を取り入れて話を作っているため,周囲の登場人物(アメリカの大統領とか,ロシアの首相とか,南アフリカのマンデラさんとか)だけに加齢現象が見られ,ゴルゴだけは歳を取っていない,という二重時間軸構造になってしまった。おそらく,デューク東郷の周囲だけ,時間軸の捩れが生じているのだろう。

 長期連載漫画として『ドラゴンボール』を見たとき,「ライバルのインフレ現象」の問題にぶつかってしまったことがわかる。
 いにしえの昔に量産された「番長漫画」では,主人公が「クラスのボス」を倒すと,次はもっと体格のいい「学校の番長」が出現,こいつを新しく覚えた技で倒すと,こんどは「地区の番長」登場。もちろん,身長2メートルくらいあり,空手の達人だったりする。そして,空手の修行とかして何とか倒すと,次は「全国の番長」出現。こうなると,身の丈3メートルくらいありそうに書かれていたもんだ。この「全国区の番長」は空手の世界チャンピオンも倒しちゃうくらい強いんだ。となると主人公も必然的に,世界チャンピオンより強くなっちゃう。でも,ふと現実に戻ってみると,たかが中学生だったり高校生だったりするんだよ・・・この「世界最強の番長」って・・・。
 要するに,「敵を倒すことで強くなる」パターンを踏襲する限り,次に現れる敵を「前の敵」より弱く設定するわけにいかないから,新たな敵はどんどん強くなることになる。そして,最後は宇宙全体を壊せるくらいのパワーがないと倒せない敵が登場することになる。これが「ライバルのインフレ」だ。「ドラゴンボール」が途中から詰まらなくなったのは,この「ライバルのインフレ」をまともに喰ってしまったことが原因だろう。そのためこの作品は,本質的に「巨人の星型」であるのに,なぜか「サザエさん型」の印象が強くなってしまったようだ。

 この「ライバルのインフレ」を巧妙に回避したのが『コウタロー まかりとおる』。ここでは主人公は,一つの格闘技に固執しない。つまり,新たなライバルは新たな格闘技の使い手,と設定するのだ。最初の敵は柔道,次は空手,次はテコンドウ・・・というわけだ。これなら,新しい格闘技を学ぶ段階で主人公の強さは「リセット」されることになり,ライバルだって極端に強く設定する必要はなくなる。
 その意味で『こち亀』も同じ方法論で,長期連載を保っている。こちらの武器は,「流行の趣味」「流行の情報」だ。つまり,パソコンが流行れば「両さん,パソコンを使う」,インターネットなら「両さん,インターネットを始める」,チョロQが流行れば「両さん,チョロQに手を出す」・・・と対象を次々乗り換えることで,物語をつないでいる。これも実に巧妙な戦略である。要するに「情報カタログ雑誌化」により長期連作を可能にしている。
 ちなみに,両さんの年齢は変化していないし,彼を取り巻く人物の関係,役職は基本的に変化していない。両さんはいつまでたっても巡査のままである。
 少年ジャンプ誌などに蔓延する「ライバルのインフレ症候群」を回避するためには,これらのように,主戦場を次々変える,というのはうまい解決法だと思う。

 さて『美味しんぼ』はどうだろうか(・・・この作品も最近,全然読んでないなぁ。詰まんないしなぁ。それにあの絵の下手さ,何とかならんものかねぇ)。この作品も当初は「巨人の星型」だったともう。「究極のメニュー」作りと父親との対立という二つの目的をもった作品だった・・・はずだ。
 だが,これで作品を長く作るのは大変だ。そこで原作者はどうしたか。「サザエさん型」の構造を取り入れて水増しすることを思いついたのだ(・・・多分)
 具体的に言うと,ネタに困ると人情話,である。つまり,喧嘩をしていた兄弟が一杯の掛けそばを食べて突如仲直りしたとか,記憶を失った料理人が肉まんを一口食べたら記憶を取り戻したとか,懐かしのスープを一口飲んだら老人性痴呆が治ったとか,まぁ,そんな話である。
 ここ数年,この漫画は全く読んでないが(・・・オイオイ,それで批評するの?),「究極のメニュー」と「至高のメニュー」のコンテスト,主人公側の「究極」が勝っているのは,いつも偶然が味方したときだけだ。たまたま行った料理店で出された料理を食べてヒントを得たとか,たまたま道で荷物を持ってあげた婆さんが料理のヒントをくれたとか,そういうのがあって勝利しているだけだ。海原雄山の持つ知識と技量に遠く及ばない主人公に勝たせるには,偶然を味方につけさせるしかないってことでしょう。

 ま,ここらの構図は『部長 島耕作』と全く同じ(昔は「課長 島耕作」でしたね。「係長 島耕作」とか「平社員 島耕作」,「パシリの島耕作」がないのにちょっと引っ掛かるけどね)
 彼がビジネスで成功するのは,いつも偶然を味方につけているときだけだ(・・・これも才能のうち,って作者は言いたいのかもしれないけどね・・・)。たまたま昔付き合っていた女性が競合する会社の重役の愛人になっていたとか,たまたま親切にした浮浪者が実は,ライバル会社の社長の変装だったとか,たまたまアメリカ出張中にアメリカ人女性との間にできちゃった子供が有名歌手となり,自分の会社の専属になったとか,よくもまあ,偶然が続くもんだなぁと感心する。幸運の女神は彼の周りだけでロンドかパラパラを踊っているのだろう。
 この漫画の作者,いつのまにか,「こうすればビジネスは成功する」なんていう本まで何冊も出していて,それなりに信奉者もいるらしい。「いかにして偶然の幸運を掴むか」を説いているのだろうか? そうだとしたら,とてもおめでたい話である。
 どうせこいつのことだから,「人に親切にしていれば,いつかは自分に返ってくるものだ」なんていう道徳の教科書みたいな人生訓を,さも一大事の如く,偉そうにのたまっているんでしょう。

 このように,連載漫画をその時間軸で見ていったとき,極めて特異な作品がある。野球漫画「あぶさん」である。
 最初の頃はそうでもなかったと思うが,この10年くらいは,現実の時間経過と同じテンポで,漫画の方も進んでいる。つまり,パリーグのペナントレースが始まると漫画の方もシーズン開始するし,オールスターの時期になると漫画の方もオールスター・・・というわけだ。おまけに,現実の野球界がそのまま「あぶさん」に反映されるものだから,工藤がジャイアンツにトレードされればそのまま「あぶさん」でもジャイアンツにトレード,秋山が他球団に移れば「あぶさん」でも同じ球団に移籍,ダイエーが最下位なら「あぶさん」でも最下位,現実に優勝したら「あぶさん」でも優勝・・・ということになる。
 「巨人の星」でも同じような時間経過をたどった時期があったと記憶しているが,これほどあからさまな作品はほとんど類例がないと思う。
 このような「現実追従型」漫画の弱点は,まさに「現実を追従している」ことそのものから生まれる。つまり,あれほどのヒーロー(あぶさん)がいてあれほど活躍しているのに,なぜダイエー(その前身の南海)は優勝できないの? という疑問が生じることだ。ここ数年は,首尾よく優勝してくれたからいいようなものの,これで最下位だったら,やはり大きな齟齬が生じる。
 もちろん,優勝できない言い訳はいくらでもできるだろうが,現実追従で物語を作る限り,現実との違和感は次第に大きくなってゆくはずだ。
 さて,そのあぶさんも来年は54歳。現実の野球球団で活躍させるにはかなり無理のある年齢である。作者の水島さんは「野球狂の詩」で70歳を超える投手,岩田鉄五郎を登場させているから,まだ20年は働ける,と踏んでいるかもしれないが,現実のプロ野球界を舞台にしている以上,50歳以上のスラッガーの存在は,どんどん現実離れしたものになるのは避けられないと思う。

 この「あぶさん」に近い設定のシリーズ物の小説を思い出した。一つはR.B.パーカーの「私立探偵スペンサー」,もう一つはローレンス・サンダースの「7つの大罪」。
 前者は,連作私立探偵物でありながら,発表年に従って登場人物が歳を取り,人間関係が一作ごとに変化する,という意欲作だった。つまり,10年経てば,登場人物も10歳老いる,という設定だ。このシリーズ,発表されるたびにリアルタイムに読んでいると,自分の肉体の変化と重ね合わせることで非常に身につまされる小説で,それがとても面白かったが,さすがに10年位前の作品からは,これじゃちょっと・・・というわけか,登場人物の年齢はあまり変化させていないようだ。
 後者の「大罪」シリーズは第4作目まで発表され,作者の死により中断された非常に惜しまれる連作だ。
 第1作目で主人公は警察署長だったが,第2作目では退職し,オブザーバーとして2作目以降の事件にかかわることになる。第2作目で署長になったのはかつての部下であり,1作目の上司が議員に立候補したりする。2作目で捜査で重要な働きをした巡査が3作目では刑事になり,2作目に登場したアル中の部長刑事がその後立ち直り,3作目では捜査を仕切ったりする。まさに,読者が経験した時間経過が,そのまま作中の人物でも流れているのだ。  リアルタイムで,発表された作品を読んでいた世代としては,第5作目が書かれなかったのが非常に残念でならない。

 「漫画における時間軸」ということで,今一番目が離せないのが,かわぐちかいじの「ジパング」だろう(「モーニング」誌で連載中)。これはタイムスリップ物,つまり,SFでは珍しくもない設定の作品だ。つまり,21世紀初頭の自衛隊がタイムスリップし,1942年の太平洋戦争真っ只中に出現してしまう,という作品だ。
 ここで作者は,極めてリアルな現実を描いてみせる。21世紀の自衛隊が太平洋戦争の場に出現したらどういう反応が起きるか,自衛隊はどう反応するか。あるいは,食料はどうやって調達するのか,衣類は,医薬品は,最新鋭艦を隠す手立ては・・・・・。
 いずれも難問ぞろいだ。それらを作者は,誤魔化しなく描いている。今後あなたが,タイムスリップに巻き込まれたら,この漫画は「暮らしの手帳」として十分機能してくれるだろう。

(2001/02/26)

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