『雷電本紀』(飯嶋和一著,河出文庫)
 「雷電」といえば,普通の日本人(小学生以下を除く)なら,ほとんどその名前を知っている。言うまでもなく,江戸時代の力士,雷電為右衛門だ。とんでもなく強かったらしい・・・とそこまでなら誰だって知っている。しかし,彼がどんな力士であったか,彼がどんな人間であったかとなると,知っている人はほとんどないだろう。
 そういう不世出の力士,雷電の生涯を描いた小説が『雷電本紀』(飯嶋和一著,河出文庫)だ。ここには静かで力強い感動が満ちている。

 雷電の生まれた時代は,まさにあの「天明の大飢饉」の頃である。民衆は天の無慈悲にさいなまれ,為政者の搾取に苦しんでいたあの頃である。当時の相撲は,横綱・谷風が出現し,ようやく近代相撲の兆しが見えてきていたが,その実態は藩に召抱えられ,飼われていた男芸者であり,芸人であった。勝負は馴れ合いでするものであったし,勝ち負けに対し武士達が口出しし,藩に都合のいいように勝敗が捻じ曲げられていった。そう言う時代である。

 雷電は,恵まれた体躯とたぐい稀な膂力を持って,そのような馴れ合いが常識であった相撲界に単身挑んで行く。彼は悪鬼のような形相で,相手力士を力でねじ伏せ,突き飛ばし,土俵にたたきつけてゆく。そのような雷電の姿勢をとがめる親方連中,武士達にも,彼は一歩も譲らない。
 裸同然,赤子のような姿で相手と立ち会うのが相撲だ。まったくの無防備の姿で相手に立ち向かうのだから,全力を尽くすのが相手に対する礼儀だろう。それで怪我をしようと命にかかわろうと,それは力士という道を選んだ時に覚悟はできているのだ・・・・と。
 当時,農村において子供は貴重な労働力であった。まして,巨体と怪力を持っている男の子は,親の,家族の希望の星だ。しかし不幸にも雷電の父は,わが子の体に,力と同時に類稀な知性が宿っていることを知った。家に置けば生活は楽になる。しかしそれでは,この子はだめになる。父はわが子を,谷風の元に預けることにする。それは同時に,子にとって,親と故郷を捨てることを意味していた。そんな時代だった。
 もう彼には帰るべき故郷はない。彼は全力ですべてに立ち向かうしかない。全力で立ち向かわなければ,あの父に合わす顔がない。

 このような雷電の姿に,兄弟子達も目覚めて行く。女色と飽食にまみれ,武士のご機嫌取りに終始していた怠惰な巨人達に眠っていた,闘う本能が次第に甦ってゆく。年下の雷電を範として,男達はすさまじい稽古を続け,土俵でその力の限りを尽くしてゆく。
 民衆もまた,そのような雷電の姿に熱狂する。相手を全力で投げ飛ばす憤怒の鬼のような姿はまさに,時代を覆うやりきれない絶望的な状況を突き破ろうとする姿であり,大地にめり込まんばかりの四股は,時代の闇に潜む悪鬼どもを踏み潰している姿であった。

 雷電は怒れる巨人であり,同時に心優しき巨人であった。

 土俵は女人禁制,相撲見物すら女には許されない時代であった。女達にとって,力士とは遠く仰ぎ見る存在でしかなかった。
 当時は,女達にとっては悲嘆の時代でもあった。生まれてくる子供のうち半分は乳離れもしないうちに死んでしまっていた。しかも世は未曾有の大飢饉。今乳を含ませている赤子が,来年まで生き延びるには奇跡にでもすがらなければいけない。
 そんな時,親は無双の金剛力に頼ろうとする。この子に生きる力を授けてくれるとしたら,それは,天地をも揺るがす雷電の力でしかありえない。
 そんな女達が抱いた子供を見ると,雷電は必ず抱き上げ,頬ずりし,祝福した。小さきもの,いたいけなものに,身を守るすべすらないものに,おのれの天下無双の力を授け,生き延びるようにと願いながら・・・。

 雷電は弟子一人を連れ,飢饉のひどい村むらを回る。生きる気力すら失い,徹底的に打ちのめされた人々を前に,雷電は弟子にぶつかり稽古を命ずる。少年は全力で雷電に向かうが,雷電は容赦しない。手心を加えず少年を叩きのめし,ひねりつぶし,突き飛ばす。悪鬼のごとく立ちはだかる雷電に,意識朦朧としながらも少年はぶつかって行く。その姿にいつしか村人達は立ち上がり,必死に応援する。自分達の声が少年に力を与えるようにと・・・。
 そしてついに,少年が雷電を押し出す。

 次の朝,雷電は時ならぬ鬨の声で目覚める。あの無気力だった村人達が,手製の弓矢,竹槍を持ち,鍬や鎌を持ち,兎や鹿を追っている声だった。座して死ぬのはごめんだ。どうせ死ぬなら力いっぱい闘おう。遠い先祖達が野山を駆け巡ったように,自分達も猪を追い詰め,鹿を狩ろう。やがて,飢餓の村に宴が始まる。村人達の頬が夕日に照らされる。

 雷電とはそんな相撲人であった。

(1999/03/22)

 

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