生理食塩水で洗うか,水道水で洗うか


 次のような質問を頂いた。

 「創洗浄に関して,このサイトでは生理食塩水(生食)より水道水を推奨されていますが,組織傷害性を考えれば生食を使うべきではないでしょうか。あれほど消毒薬を攻撃しているのに水道水を推奨するのは,論理的に矛盾していると思いますがいかがでしょうか?」

 実に鋭い指摘である。こういう本質を突いた質問,大歓迎である。


 まず,創を洗浄する目的とは何だろうか。実は創面を洗うのでなく,創周囲の皮膚を洗うことの方が重要だ。むしろ,創表面はよほど汚れていない限り,洗う必要はないし,圧をかけて洗ったり,こすったりすることは御法度と考える。肉芽を痛めつけたり,せっかく創面に広がりつつある上皮細胞を傷つけるからだ。

 では,なぜ傷周囲の皮膚を洗うかというと,皮膚が汚れていては発赤などの症状が正確につけられないし,皮膚の汚れ(浸出液,溶けたハイドロコロイド,ワセリンなど)を洗い落とすことで皮膚のトラブルをかなり回避できるからだ。だから,「皮膚は洗うが,傷そのものはあまり洗わない」のが正解である。とはいっても,皮膚を洗えば必然的に創面も濡れてしまうが,ここは,「皮膚は積極的に洗うが,創面は結果的・消極的に洗ってしまった」くらいに考えた方がいいと思う。


 さて,水道水洗浄か生食洗浄かと考える場合,以下の問題を複合的にとらえる必要がある。

  1. 値段
  2. 細胞傷害性
  3. 洗浄時の疼痛
  4. 洗浄後の不快感

 これらの観点から,水道水と生理食塩水について比較してみよう。


 まず,値段の問題。もちろん,大量に気軽に使えるかという問題だが,もちろん,水道水洗浄の勝ちである。

 次に,水道水と生食での組織(細胞)傷害性の問題。「細胞内液との浸透圧差のために,細胞が破壊されるんじゃないの?」という疑問である。もちろん,生食でも細胞内液よりは浸透圧が低いことには変わりはなく,細胞は破壊されるわけであるが,両者を比べれば,生食の方が安全と言える。

 さてここで,細胞障害性をとるか物理的洗浄をとるかである。細菌汚染の可能性が強い創で細菌の除去を最優先に考えていれば,「細胞障害性に目を瞑って物理的洗浄を優先」すればいいし,感染の危険が低い創であれば治癒を最優先して「物理的洗浄は無視して細胞障害性を優先」と考えればいいと思う。要するに,最優先の項目は何か,ということだ。

 ちなみに,水道水,生食,消毒薬の3つを比較すると,組織傷害性については

 これを見ても,消毒薬に意味がないことがよくわかる。


 洗浄時の痛みも,洗浄する液体と神経末端との浸透圧格差が作用しているだろうから,生理食塩水の方が水道水より痛みが少ないのは当然だろう。だから,水道水で洗うなら「ちょっと痛いですよ」と一言添えて洗うか,きっちりと局所麻酔をして痛みを取ってから洗うか,どちらかを選べばいい。

 さらに,洗浄後の心地よさという問題もある。生理食塩水で洗った後,そのままにしておくとネトネトベタベタして気持ちが悪いのだ。「俺はベトベトなんて気にしない」という人もいれば,それを気にする人もいるだろう。だから後者のタイプの患者さんには,生理食塩水洗浄後にそれを水道水などで軽く洗ってあげた方がいいと思う。


 医療に必要なのはバランス感覚だと思う。治療効果にばかり目を奪われて,それが苦痛を生み出しているのにそれに気がついていなかったら間違っているし,苦痛を少なくしようとして治療効果がなくなるのも間違い。また,効果はあるが値段が高いというのも困る。「生食の方が痛くないから,生食を大量に使って洗うのがベスト」と考えて,これを病院全体,日本全体で始めたらとんでもないことになるからだ。

 そして,生食で洗うか水道水で洗うか,などの問題で迷ったら,「この患者さんで最優先すべき問題は何か」と考えると解決の糸口が見えてくるはずだ。

 「傷もきれいに治したい,創感染を起こすのも困る,できるだけ痛みを取ってあげたい,治療期間も短くしたい」と常に最善の医療を求めるのは大事なことだが,結局,収拾がつかなくなることが多いようだ。だからこういう時は,問題点を全て列記し,最優先の問題は何かを考え,まずそれに対処する。そして,その問題点が解決したら,次に優先すべき問題に対処する。そしてそれを,一人一人の患者さんで個別に決めるのである。大抵の場合は「感染予防→早期の創治癒→傷跡もきれい」という方向性になるはずだ。だから通常は〔感染源の除去とドレナージ→湿潤治療→上皮化の後の遮光やテーピング〕という順番で治療法を選択することになると思う。


 また,「迷ったら面倒な方」という思考法も有用だ。これは私の先輩医師が教えてくれた教えだが,この教えを守っていれば,大体は間違うことはないはずだ。ドレーンを入れるか入れなくてもいいか迷ったら面倒な方(ドレーンを入れる)でいいし,圧迫していいかしなくていいか迷ったら面倒な方(圧迫する)でいい。ま,人生全般に通じる思考法かもしれないが・・・。

(2005/10/20)

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