『生命はなぜ生まれたのか―地球生物の起源の謎に迫る』★★★ (幻冬舎新書)


 一般向けの科学書は大きく二つに分かれる。サイエンス・ライターが書いた本と研究者が一般向けに書いた本だが,それぞれに長所,欠点がある。前者は読みやすく関連する分野が過不足なく取り上げられているが,まだ決着が付いていない分野については両論併記になるのが普通だ。一方,後者の著者は原則的に論文の書き手であって読み物系の文章を書くのは得意ではないが,自分の専門については「世界的にはこちらの説を指示する専門家が多いが,自分はこれは間違っていると考えている。理由は・・・」という具合に著者の考えがストレートに書かれていることが多い。また,最先端の研究分野に触れられるのも後者の本の魅力だ。

 本書は深海熱水活動域研究の最前線に立つ研究者であり,その専門分野の研究を紹介したのが本書である。つまり後者のタイプの書き手だ。普通なら文章が下手だろうと考えてしまうが,本書の著者は明快で軽妙洒脱な文体を自在に操っているのである。名文家タイプではないが,「関西人のノリ」(ちなみに著者は京都生まれ)で最後まで読み手を惹きつける文章が書ける人なのだ。研究者の文章としてはかなり異質であるが,「一人ツッコミ,一人ボケ」までしていてノリノリの文体は読んでいて楽しい。

 そういう軽い文体だが,内容はかなりハードで高度である。多分,「高校の化学,生物学なら全て知っている」程度では歯が立たない部分が結構あると思う。つまり,オチャラケ文体という羊の皮を被った狼である。


 そして内容が輪をかけて面白い。今日主流となっている「原初の地球での生命誕生のプロセス」について,ことごとく否定しているのだ。つまり,「地球における最初の生命体は深海底の比較的低温の熱水活動域で生まれた」という定説も,「DNA誕生の前にRNAだけで遺伝子複写をしていた "RNAワールド" があった」という定説も,本書の筆者はそのどちらも間違っていると主張し,極めて強固な論理で自信満々に一刀両断して自説を展開するのだ。そのさまは読んでいて爽快ですらある。

 なぜ著者は自信満々に「定説」を否定できるのか。それは実際の海底熱水活動域を世界の誰より見てきて,誰よりもよく知っているという自信と自負があるからだ。やはり,現場を知っているものが一番強いのである。現実を知らない人間が頭でこねくり回して作った理論と現場を知った上で作り上げた理論では,背景がまるで違うし,いわば背負っているものが違うのだ。地に足がついていて自由に想像の翼を広げるのと,最初から宙に浮いているだけの空論は別物なのである。


 これまで本サイトでは生命誕生に関する本をいくつか紹介してきたが,本書の著者のスタンスが他の類書と全く違うのは次の2点である。

  1. 個々の生命でなく,生命体が持続できる環境と渾然一体としたものとして生命体を捉えている点
  2. 物質でなく「エネルギー」を中心にしている点

 これが最もよく表れているのは「第3章 生命発生以前の化学進化過程」である。ここで著者は「生命の定義は気にしていない。生命が生命のみで存在することはあり得ない。生命を取り囲み,生命を含んだ環境のあり方やその中のエネルギーや物質の流れの方がもっと重要ではないか」という文章からも明らかだ。要するに,原始の地球で誕生した生命体が生き延びるためには,何とかして外部(=環境)からエネルギーを得るしかないのだ。しかも,そのエネルギー源は持続的に提供されるものでなければいけない(原初の生命体がエネルギー源を求めて自由に動き回ったとは考えられないから)。すなわち,環境から持続的にエネルギーを作り出せなければ,誕生した生命体はすぐに死滅してしまったはずだ。つまり,生命体は環境と表裏一体であり不可分なのである。生命の起源について述べた説は多数あるが,環境との関係をここまで問い詰めたものはなかったと思う。このあたりは,深海熱水活動域といういわば極限状態を生存域とする生物を誰よりも知る筆者ならではの視点だろうと思う。

 原初の生命体のエネルギー源は原始有機物発酵だったと考えられているが,この生命体は周囲の有機物を消費し尽くした時点で死滅していった(その意味で,35億年前の太古の深海熱水活動域では生命が新たに生まれてはすぐに死んでいったと,筆者は述べている)。いわば「一発屋生命」だ。しかしその一発屋の中で,硫化鉱物表面での原始代謝(水素資化性メタン生成など)を取り込んだ生命体が出現し,深海熱水活動域から持続的に供給される水素をエネルギー源とする生命集合体が出現した,というのが本書の考えるストーリーである。そして,40億年前の原始海水の化学組成と,当時の海洋地殻の構造と構成から,実際に水素が持続的に発生することを実験室レベルで証明していくのだ。その考察過程はきわめて論理的でありスリリングですらある。


 本書は筆者の研究の最前線を伝えるものだが,文章は前述のように「関西人のノリ」そのままで非常にわかりやすく,何より比喩が秀逸だ。例えば,「エネルギーをATPに換える3つの方法」という部分で,「発酵は物々交換。呼吸と光合成は基本使用は同じだが金融業のノウハウが入る。TCA回路はいわば“ロンダリング”であり,電子伝達系は資産運用部だ」という比喩は,エネルギー代謝の本質を突いていて見事だと思う。何より具体的イメージが読者にきちんと伝わるではないか。意表を突く比喩で本質を伝える技術は,一般向けの本を書く科学者に必須の才能だと思うが,これはまさにそのよい例だと思う。


 地球における最初の生命体がどのように誕生したのか,という地球最大の謎に興味を持っている人なら,是非読んでみるべき良書だと思う。何より,新たな知の地平を切り開こうとする研究者の気迫が,これから科学を目指そうと考えている若い読者にとっては何より刺激になるだろう。

(2012/02/01)