「塩」の世界史 ―歴史を動かした,小さな粒★★(マーク・カーランスキー,扶桑社)


 塩(NaCl)は人間を含め動物が生きていく上で欠くことのできない化合物の一つだ。発汗などの形で常に体から失われていき,体内で合成できない以上,どうしても外部から補わなければいけない。同時に,塩は人間にとっては最も基本的な食事の味付けであり,極めて古い時代からのパートナーでもある。本書は,そういう「塩」を通して人類の文明史と歴史を捉え直してみようとする壮大で野心的な試みである。


 まず本書は,古代文明の発祥地ごとに塩の歴史を語る。古代中国では土器による製塩を行なっていたが,紀元前250年ですでに深さ90メートルの塩井を掘っていたというから,その技術の高さは半端ではない。しかも彼らは,塩水と同時に吹き出してきた天然ガスを塩水の蒸留に利用していたのだという。おまけに,11世紀に中国人が開発した掘削技術は19世紀になるまでそれを越える技術が開発されなかったというほど完成度の高いものだったらしい。恐るべし,中国文明!

 かたや,塩を食品の保存に最初に利用したのは古代エジプト人だ。彼らはナイルの氾濫がもたらす恵みで農耕を始めたが,ナイルの氾濫は必ず約束されたものではなかった。彼らは,不作の年にも生き延びるために塩漬けを考案する。そして彼らは,塩そのものでなく,塩漬け食品が強力な商品であることを発見した最初の民族でもあった。

 そして古代ローマでは,製塩所の近くに都市が築かれ,塩を運ぶための「塩の道」が作られた。帝国を拡大するためにはより遠方まで兵士を派遣する必要が生じ,兵士たちには塩は必需品だった。つまり,軍事物資としての塩である。


 そのローマ帝国が滅亡した後,イタリアではヴェネツィアが繁栄するが,その鍵の一つがやはり塩だった。そして,当時の製塩に関する技術開発がそれを後押しする。他の都市は塩作りに精を出したが,ヴェネツィアは塩の売り買いがより効率がいいことを発見し,他の地域から塩を買い入れることに補助金を出した。やがてヴェネツィアの商人たちは塩と香辛料の貿易により地中海を制することになる。

 一方,中世以降のヨーロッパ,そして世界中の庶民を飢餓から救ったのは塩漬けの魚,とくに塩ダラだった。その背景にあったのは,中世カトリック教会の肉食禁止日の制定だった。なんと,1年間のうち半分は肉食が禁じられていたのだ。お祈りだけしていればいい坊さんはそれでいいかもしれないが,日々労働する民衆はたまったものではない。それを救ったのが,卓越した船乗りであるバスク人による「タラの発見」だった。タラは脂肪が少ないために塩漬けにするだけで保存でき,しかも美味だった。教会が魚食を勧めたこともあり(何しろイエスもペトロも元はガリラヤ湖の漁師だったはずだ),塩ダラ料理は全ヨーロッパの食卓に普及した。ちなみに,バスク人の開発したタラ漁の技法は第二次大戦後まで標準的な漁法だったそうだ。かくして,塩漬けタラとニシンはヨーロッパを飢餓から救ったが,同時に彼らの塩摂取量は驚くほど増え,18世紀には1日あたりの塩摂取量は70グラムに達していたと言う(・・・当時のヨーロッパ人はみんな高血圧患者だったのだろうか?)。そして,ヨーロッパで塩鉱業を手中に収め,塩の専売制度を確立したのがあのハプスブルク家であり,彼らの輝かしい繁栄はご存知のとおりだ。


 そして,アメリカ独立とその後の南北戦争でも陰の主役は塩だった。

 イギリスにとっても塩は重要な戦略物資だった。塩ダラを作るためにも,火薬を製造するためにも,そして兵士の食料としても大量の塩が必要だったからだ。そしてそれはフランスもオランダにとっても同様であり,彼らは競って北アメリカ大陸に植民した。

 イギリス植民地でも塩を十分に作る能力があったが,当時のイギリスで莫大な量の岩塩が埋蔵されているチェシャー岩塩鉱脈が発見されたことから,それを売るためにアメリカの製塩を抑制する必要があった。そこでイギリスはリヴァプールから輸出する塩の値段を一気に下げるという手段を講じた。当初,事はイギリスの目論見通りに進んだが,アメリカ移民たちがイギリスを介さない貿易を盛んに行うようになるにつれ,次第に彼らのの間に自主独立の機運があがるようになり,やがて独立戦争が始まる。しかし,当時のアメリカは肝心の塩に関してはイギリスからの輸入に頼るしかなく,その結果,独立戦争は長く苦しい戦争となった。

 南北戦争での北軍の勝利は圧倒的な武器産業が原因とされるが,実は製塩量でも両者には5倍の差があり,アメリカが輸入した塩の大半は南部で消費されていた。そして南北戦争が開戦した時,製塩量の差はそれぞれの軍事力の差になった。「食肉保存用の塩なくして軍は存続できない」という北軍将軍の言葉がすべてを物語っている。そして,南部での塩不足に目を付けた投機家たちが塩の価格操作に乗り出した時,南部にはもう勝ち目がないも同然だった。


 そして19世紀初頭,デーヴィーは塩の電気分解から塩素の単離に成功するが,これが新たな時代を開くことになる。塩素はすぐに漂白に使われて繊維産業の中心となり,さらに水処理,下水処理になくてはならないものとなった。塩素はさらにプラスチック製造の原料であり,マスタードガスという化学兵器にも変身した。

 20世紀の偉人の一人にしてインド独立の父,マハトマ・ガンディーの武器も塩だった。彼は1930年3月,78人の賛同者とともに400キロ離れた海岸を目指して歩き始めた。そこには広大な天然海塩がある浜が広がっていたが,イギリス総督府はインド人による塩採取を禁じていたのだ。塩はまさしく,イギリスによる植民地支配の武器だった。そして25日後,ガンディーら一行は浜に到着するが,78人で始まった「塩の行進」は数千人に膨れ上がっていた。そしてガンディーは浜辺を覆う砂を手で掬った。警官はその手を叩き落としたが,するともっと多くの手が塩を掬った。警官は警棒を振り回したが,塩を掬いあげる人々は非暴力を貫いた。その様子をイギリス以外のマスコミが報じ(ガンディー逮捕以後,イギリスの新聞もガンディー逮捕は愚の骨頂と書くようになる),世界中がその非暴力運動の行方を固唾を飲んで見守り,ガンディーの静かな戦いはインド独立の日まで続いた。


 欧米の食卓を制覇した塩漬け食品は,20世紀に入り次第に姿を消していく。食品保存の技術が発達し,塩漬け自体が必要なくなったからだ。だが塩漬け食品は塩分量を減らしながら,サケ料理として,アンチョビーとして,キャビアとして生き延びる。塩漬けされた食品そのものの持つ風味を人類は愛しているからだ。「肉の保存法としてのハム」という意味が失われても,生ハムの味は人類にとって大事なものだった。


 主に本書の「塩と歴史」関連の部分をかいつまんで紹介したが,これでも全体の2割程度の内容だと思う。15世紀以前のアメリカ大陸のマヤやインカなどの文明と塩の関係,あるいは製塩技術の変遷に関する説明も極めて面白かったし,「中国料理の長い歴史の中で塩をふりかける料理法がなぜ出現しなかったのか」というあたりも興味深いものがあった。

 人類の歴史や文明史について興味を持っている人なら,一読の価値はあると思う。

(2012/04/24)